第40話 森に残る酒
月雫酒を囲んだ宴は、穏やかな空気の中で続いていた。最初こそ緊張していたエルフたちも、杯を重ねるうちに少しずつ口数が増えている。森の広場には笑い声も混じり、いつの間にか一樹の周りには何人ものエルフが集まっていた。
「……正直に言うと、人間の酒はもっと強いものだと思っていました」
若いエルフがそう言うと、一樹は思わず笑った。
「なんでですか?」
「人間は森の外で、もっと刺激の強い酒を飲んでいると思っていたので」
「まあ、強いお酒もありますけどね。俺が好きなのは、こういう飲みやすいお酒ですよ」
「なるほど……」
若いエルフは、真剣な顔で頷いた。
その隣にいたエルフが、少し迷ってから口を開く。
「私は……最初、一樹には早く森から出てほしいと思っていました」
「やっぱりそうだったんですか」
「すみません」
「いえ。俺も、いきなり知らない人が森に入ってきたら警戒すると思います」
そう言うと、そのエルフは少し驚いたように一樹を見た。
「でも、森葡萄を酒にすると聞いてから……少し気になってしまって」
「お酒のことですからね」
一樹が笑うと、周囲から小さな笑い声が上がった。
セレフィアも、口元をわずかに緩めている。
その横でセレナが杯を傾けた。
「最初はあれだけ警戒されていたのに、今ではすっかり馴染んでいるわね」
「そうですか?」
「そうよ」
「お酒の話をしてるだけなんですけどね」
「それが一樹らしいのかもしれないわね」
一樹は少しだけ首を傾げた。
「そうなのかな」
そんなやり取りをしながら宴が続いていると、少し年上のエルフが静かに口を開いた。
「……一樹」
「はい?」
「昔、人間がこの森に入ってきたことがある」
宴の空気が、ほんの少しだけ変わった。
一樹は杯を置き、黙って話を聞く。
「木を切り、森の恵みを持ち帰ろうとした者たちだった」
「……そういうことがあったんですね」
「だが、彼らに悪意があったのかは……今となっては分からない」
一樹は少し意外そうな顔をした。
「悪意がなかった?」
「人間にとっては、必要だったのかもしれない。木材も、果実も、薬草も。森にあるものを、使えるものとして見ていただけなのだろう」
「でも、エルフにとっては違った」
セレフィアが静かに続ける。
「森は、私たちの暮らしそのものだから」
「そうですよね」
一樹は森を見渡した。
木々の間には月明かりが差し込み、その足元には森葡萄の蔓が伸びている。
今こうして飲んでいる月雫酒も、この森があったから作ることができた。
「それで、人間を嫌うようになったんですか?」
一樹が尋ねると、しばらく誰も答えなかった。
やがて、長老が静かに口を開いた。
「……嫌っていたのではない」
一樹が長老を見る。
「知らなかったのだ」
長老は月雫酒の入った杯を見つめていた。
「人間が何を考えているのか。何を求めているのか。そして、人間もまた、我らが何を大切にしているのかを知らなかった」
一樹は黙って聞いている。
「知らぬ者同士が近づけば、恐れが生まれる。恐れが積み重なれば、それはいつしか決めつけになる」
長老は静かに杯を置いた。
「だから我らは、人間を嫌うのではなく……近づけないことを選んだ」
「……なるほど」
一樹はしばらく考えた。
「でも、こうやって一緒にお酒を飲んでみると、普通に話せますね」
セレフィアが一樹を見る。
「……そうですね」
「俺も最初はどうなるかなって思ってましたけど、森葡萄からお酒まで作れましたし」
一樹は月雫酒の入った杯を見る。
「こういうのも、悪くないですよね」
「はい」
セレフィアは小さく笑った。
「お酒を飲みながらだと、普段より話しやすいこともありますから」
「そうですね」
一樹も頷く。
「俺、お酒を飲む時間って、そういうところも好きなんです」
「以前も、同じことを言っていましたね」
「そうでしたっけ?」
「はい」
「よく覚えてますね」
「……覚えています」
セレフィアは静かに杯へ視線を落とした。
この酒を作っている間、一樹と過ごした時間が頭に浮かぶ。
森葡萄を選び、潰し、仕込み、何度も味を確かめた。
魔力を加えるという、誰も知らなかった方法まで一緒に見つけた。
その時間が、セレフィアにとっては不思議なくらい心地よかった。
「この酒は……残したいですね」
セレフィアが言った。
「月雫酒を?」
「はい」
周囲からも賛同の声が上がる。
「森葡萄から作られた、森の酒」
「この森でしか作れない酒にしたい」
「いつか、森の外の者にも飲ませてみたい」
そんな声を聞きながら、一樹は嬉しそうに笑った。
「それなら、作り方はちゃんと残しておかないといけませんね」
「一樹が教えてくれるのですか?」
「もちろんです。でも、俺が全部作るわけじゃないですよ」
一樹は隣にいるセレフィアを見る。
「これはセレフィアさんと一緒に作ったお酒ですから」
その一言に、セレフィアの瞳がわずかに揺れた。
「……私と?」
「はい。俺一人じゃ完成しなかったですから」
セレフィアは何か言おうとして、ほんの少しだけ口を閉じた。
そして、静かに微笑む。
「……そうですね」
その様子を、少し離れた場所からセレナが見ていた。
隣では長老もまた、何も言わずに二人を眺めている。
二人とも、セレフィアの気持ちには気づいていた。
けれど、何も言わなかった。
宴はその後も続いた。
森葡萄の育て方を話す者。
月雫酒の香りについて語る者。
一樹に人間の酒について尋ねる者。
気づけば、最初にあった「人間だから」という距離は、ほとんどなくなっていた。
一樹もまた、笑いながら杯を重ねた。
やがて宴が終わりに近づいた頃、広場に残ったのは静かな夜の空気だった。
木々の隙間から月が見える。
一樹はその月を見上げた。
「……この森に来てよかったな」
隣にいたセレフィアも月を見上げる。
そして、少しだけ一樹の横顔を見た。
「……私も」
一樹は特に深く考えることなく、笑った。
「また月雫酒、作りましょうね」
「……はい」
セレフィアは小さく頷いた。
その返事には、一樹が知らない想いが、ほんの少しだけ込められていた。
森の夜は、静かに更けていった。
次回に続く。




