第27話 三百年の本音
夜。
ドワーフの町の中央広場には、多くの人々が集まっていた。
鍛冶を終えた職人。
家族連れ。
若い鍛冶師たち。
白髪の老人たち。
町中の人々が、不安そうな表情で長老ガンツを見つめている。
昨日までなら、この時間は酒場から笑い声が聞こえていたはずだった。
しかし今夜は違う。
誰一人、木杯を手にしていない。
酒樽も運ばれていない。
静かな夜風だけが広場を吹き抜けていた。
一樹とセレナも、人々の後ろからその様子を見守る。
「こんなに集まるなんて……。」
一樹が小さく呟くと、セレナも静かに頷いた。
「長老自ら町の者を集めることは、ほとんどありません。」
「皆さん、不安なんでしょうね。」
一樹は広場を見回した。
昨日、鍛冶場で言い争っていた若いドワーフたちもいる。
酒場の店主も。
あの日の話を聞いていた者たちも。
誰もが、これから語られる言葉を待っていた。
やがて、ガンツが広場の中央へ歩み出る。
年老いた身体とは思えないほど、その一歩一歩には力があった。
ざわめいていた広場が、自然と静まり返る。
ガンツは町の人々をゆっくりと見渡した。
「皆。」
低く落ち着いた声が広場に響く。
「忙しい中、集まってくれて感謝する。」
誰も口を開かない。
ガンツは一度だけ空を見上げ、小さく息を吐いた。
「今日は。」
「長老として話すために、お前たちを集めたのではない。」
町の人々が顔を見合わせる。
ガンツは静かに首を横へ振った。
「一人のドワーフとして。」
「一人の鍛冶師として。」
「そして。」
「三百年前の宴を知る最後の一人として。」
「お前たちへ、本当のことを話したい。」
その言葉に、広場の空気が張り詰めた。
若い世代は知らない。
古い世代も、多くは詳しく語られてこなかった。
三百年前、本当は何があったのか。
ガンツはゆっくりと口を開く。
「昨日。」
「儂は三百年ぶりに、乾杯をした。」
町中が静まり返る。
「儂は長い間。」
「乾杯を憎んでいると思っていた。」
ガンツはゆっくりと首を横へ振った。
「違った。」
その一言に、人々が息をのむ。
「憎んでいたのではない。」
「恐れていたのじゃ。」
ガンツは静かに目を閉じる。
「また信じてしまうことを。」
「また大切な者を失うことを。」
「儂は、恐れておった。」
その本音は、町の誰も聞いたことがなかった。
店主は驚いたように目を見開く。
「長老……。」
昨日、酒井一樹と語り合い。
三百年ぶりに宴の広場を訪れ。
父の木杯へ触れた。
そのすべてが、ガンツの胸に閉じ込めていた本音を少しずつ解き放っていた。
広場には静かな沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのは、一人の若い鍛冶師だった。
「長老。」
「俺たちは……。」
「これから、何を信じればいいんですか。」
その問いに、誰も答えられなかった。
若い鍛冶師の問いは、広場に重く響いた。
「俺たちは……。」
「何を信じればいいんですか。」
その言葉は、誰か一人のものではなかった。
広場に集まった若いドワーフたちも、同じような表情でガンツを見つめている。
幼い頃から教えられてきた。
乾杯はするな。
仲間を信じすぎるな。
あの日を忘れるな。
それが、この町の”当たり前”だった。
ガンツは若い鍛冶師の前まで歩み寄る。
「お前の名は。」
「レオンです。」
「レオンか。」
ガンツは静かに頷いた。
「お前は鍛冶が好きか。」
突然の問いに、レオンは少し戸惑う。
「……はい。」
「好きです。」
「なぜじゃ。」
「え?」
「なぜ鍛冶が好きなんじゃ。」
レオンは少し考えたあと、照れくさそうに笑った。
「父さんが鍛冶師だからです。」
「小さい頃から、父さんの背中を見て育ちました。」
「鉄が真っ赤に染まって。」
「槌を振るたびに形が変わっていく。」
「あれが格好よくて。」
「俺も鍛冶師になりたいって思いました。」
ガンツは穏やかに微笑む。
「では。」
「鍛冶が憎いか。」
「そんなわけありません!」
レオンは即座に答えた。
「鍛冶は俺の誇りです!」
「たとえ。」
「鍛冶で怪我をした人がいても?」
レオンは言葉を止めた。
「鍛冶場では事故も起きる。」
「火傷をする者もおる。」
「時には命を落とす者もおる。」
「それでも。」
「お前は鍛冶を憎むか。」
レオンはゆっくりと首を横に振る。
「……憎みません。」
「事故を憎みます。」
「気を抜いた自分を悔やみます。」
「でも。」
「鍛冶そのものは憎めません。」
ガンツは静かに頷いた。
「そうじゃ。」
広場に集まった人々へ視線を向ける。
「酒も同じ。」
「乾杯も同じじゃ。」
「儂らは。」
「裏切った者ではなく。」
「乾杯を恐れるようになってしまった。」
その言葉に、年配のドワーフたちが静かに俯く。
「それが本当に。」
「父や兄が望んだことだったのか。」
ガンツは誰に問いかけるでもなく、静かに呟いた。
誰も答えられなかった。
答えを持っている者は、この町にはもういない。
だが、その沈黙こそが、三百年という歳月の重さを物語っていた。
一樹は黙ってそのやり取りを見つめていた。
今、話しているのは自分ではない。
これはドワーフたち自身が向き合わなければならない問題だった。
だからこそ、一樹は一歩も前へ出なかった。
静かな沈黙が広場を包む。
やがて、一人の年配のドワーフがゆっくりと手を挙げた。
「長老。」
「儂は……。」
「今でも怖い。」
その声は震えていた。
「また人間を信じて。」
「また同じことが起きたらと思うと……。」
「乾杯など、できん。」
ガンツは静かに頷く。
「分かる。」
「儂も昨日まで、そう思っておった。」
その一言に、年配のドワーフは驚いたように顔を上げた。
「長老も……。」
「ああ。」
「儂も、お前と同じじゃ。」
「怖かった。」
「だから。」
「乾杯だけではない。」
「あの日の思い出まで閉ざしてしまった。」
ガンツはゆっくりと広場を見渡した。
「だが。」
「昨日。」
「酒井と話して気付かされた。」
一樹は少し驚いたようにガンツを見る。
「儂は。」
「裏切られた日のことばかり見ておった。」
「じゃが。」
「あの日は、それだけではなかった。」
ガンツの表情が少し和らぐ。
「父も。」
「兄も。」
「人間の友も。」
「皆、笑っておった。」
「酒を飲み。」
「歌い。」
「肩を組み。」
「心から楽しんでおった。」
広場にいた年配のドワーフたちも、少しずつ顔を上げ始める。
その中の一人が、小さく呟いた。
「……そうじゃった。」
「儂も。」
「走り回って遊んでおった。」
別の老人も苦笑する。
「料理をつまみ食いして、母に怒られたものじゃ。」
あちこちから、小さな笑い声が漏れる。
それは三百年間、この町から消えていた笑いだった。
ガンツはその様子を静かに見つめる。
「思い出は。」
「悲しいものだけではなかった。」
「儂らは。」
「楽しかった日まで、忘れようとしてしまった。」
その言葉に、一樹はそっと微笑んだ。
誰かを説得したわけではない。
自分が何かを変えたわけでもない。
ただ、本音を話したことで、ドワーフたち自身が少しずつ過去と向き合い始めていた。
ガンツはゆっくりと息を吸う。
「皆。」
「明日の夕刻。」
「もう一度、あの宴の広場へ集まってくれ。」
町の人々がざわめく。
「あの広場へ……。」
「三百年ぶりに……。」
ガンツは力強く頷いた。
「儂には。」
「確かめたいことがある。」
「そして。」
「お前たちに、見せたいものがある。」
広場に集まった誰もが、長老の言葉を静かに受け止めていた。
明日の夕刻。
三百年間止まっていた時間が、再び動き出そうとしていた。
次回に続く。




