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酒で世界は救えますか? ~飲み過ぎで死んだ酒豪、異世界では乾杯ひとつで争いを終わらせます~  作者: 春野ケイ


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第26話 火は友に

 ガンツは父の木杯を両手で包むように持っていた。


 長い年月を越えてきた木杯は、静かな陽射しを受けて柔らかな木目を浮かび上がらせている。


 一樹はその木杯から目を離せなかった。


「長老。」


 静かに口を開く。


「さっきの……。」


「『火は友に。』って。」


「どういう意味なんですか?」


 ガンツは木杯を見つめたまま、小さく頷いた。


「あれは。」


「儂らドワーフの乾杯の言葉じゃ。」


「やっぱり。」


 一樹は少し嬉しそうに笑う。


「人間にも。」


「オークにも。」


「それぞれ乾杯の言葉がありました。」


「ドワーフにもあるんだろうなって思ってました。」


 ガンツは少し驚いたように一樹を見る。


「そうか。」


「お主は、他の種族の言葉も受け入れてきたのじゃな。」


「はい。」


 一樹は迷いなく頷いた。


「乾杯って、その人たちの文化だと思うんです。」


「だから、その土地へ来たら、その土地の乾杯で飲みたい。」


「その方が、もっとお酒が美味しくなる気がして。」


 ガンツの口元がわずかに緩んだ。


「変わった旅人じゃ。」


「よく言われます。」


 一樹も笑う。


 ガンツは父の木杯をそっと撫でた。


「酒井。」


「お主は、ドワーフにとって一番大切なものは何だと思う。」


 一樹は少し考える。


「鍛冶……でしょうか。」


「違わん。」


「じゃが、それだけではない。」


 ガンツは広場の隅に残る石造りの炉を指差した。


「見えるか。」


「あの炉が。」


「はい。」


「儂らの一日は。」


「あの火から始まる。」


「朝、炉へ火を入れ。」


「鉄を熱し。」


「槌を振るう。」


「剣も。」


「鍬も。」


「鍋も。」


「全て火がなければ生まれん。」


 一樹は静かに頷く。


 ガンツは続けた。


「仕事が終われば。」


「家へ帰る。」


「そこにも火がある。」


「家族が火を囲み。」


「料理を囲み。」


「酒を囲む。」


「火が消えた家は、寂しい家じゃ。」


 その言葉には、長い年月を生きてきた者だけが持つ重みがあった。


「鍛冶も。」


「暮らしも。」


「酒も。」


「全部、火のそばで始まる。」


 ガンツは木杯を少しだけ持ち上げる。


「だから儂らは。」


「火を友と呼ぶ。」


 一樹は木杯を見つめた。


 その一言だけで、胸の中に温かな景色が浮かぶ。


 赤く燃える炉。


 その火を囲む家族。


 仕事を終えた職人たち。


 そして、一日の終わりに酌み交わす酒。


「だから……。」


「『火は友に。』なんですね。」


 ガンツは静かに頷いた。


「ああ。」


「『友である火と共に、この一杯を分かち合おう。』」


「それが、儂らの乾杯じゃ。」


 一樹は自然と笑みを浮かべた。


「いい言葉ですね。」


「俺、この乾杯、すごく好きです。」


 ガンツは少し目を丸くした。


「意味を知ったばかりなのにか。」


「だからです。」


 一樹は照れくさそうに頭をかく。


「意味を知ったから、好きになりました。」


 その言葉に、ガンツは思わず笑みをこぼした。


 三百年もの間、誰も口にすることのなかった乾杯の言葉。


 それを、目の前の旅人は何の迷いもなく「好きだ」と言った。


 その一言が、不思議なくらい嬉しかった。


ガンツは父の木杯を静かに木箱へ戻した。


 その手つきは、まるで壊れ物を扱うように優しかった。


「酒井。」


「儂らはな。」


「昔から、火に育てられてきた。」


 一樹は黙って耳を傾ける。


「子どもは。」


「初めて炉の番を任されると、一人前へ近づいたと言われる。」


「鍛冶師は。」


「炉の火を見れば、その日の鉄の出来が分かる。」


「年寄りは。」


「火を囲みながら酒を飲み、若い者へ技を伝える。」


 ガンツは広場を見渡した。


「火は。」


「鉄を鍛えるだけではない。」


「人も育てる。」


「だから、友なんじゃ。」


 一樹は広場の中央を見つめる。


 もし三百年前へ戻れたなら。


 ここには大きな炉があり、その周りには人間もドワーフも肩を並べて座っていたのだろう。


 子どもたちが走り回り、大人たちは酒を酌み交わす。


 炉の火は、その真ん中で皆を照らしていた。


「何だか……。」


 一樹は小さく笑った。


「乾杯というより、願いみたいですね。」


 ガンツはゆっくり頷く。


「その通りじゃ。」


「酒が旨く飲めるように。」


「仲間が無事であるように。」


「明日も火が消えぬように。」


「その願いを、一つの言葉へ込めた。」


「それが。」


「『火は友に。』じゃ。」


 一樹は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 短い言葉なのに、その中にはドワーフたちの暮らしそのものが詰まっている。


「俺。」


「この乾杯、忘れません。」


 ガンツは少し照れたように笑う。


「そう言ってくれるだけで十分じゃ。」


 その時だった。


 広場の方から慌ただしい足音が響いてくる。


「長老!」


 若いドワーフが息を切らしながら駆けてきた。


「こんな所におられましたか!」


「どうした。」


 ガンツが振り返る。


 若いドワーフは一樹の姿を見て一礼すると、慌てた様子で口を開いた。


「鍛冶場で揉め事です!」


「若い衆同士が大喧嘩になっております!」


 ガンツの表情が引き締まる。


「理由は。」


「昨日の盟約です!」


「『乾杯なんて二度とするべきじゃない』という者と、『もう恐れる必要はない』という者で言い争いになっています!」


 一樹とガンツは顔を見合わせた。


 三百年封じ込められていたものは、たった一度の乾杯で動き始めていた。


ガンツは静かに木箱の蓋を閉じた。


 蓋が閉まる音が、広場に小さく響く。


「行こう。」


 短くそう言うと、若いドワーフの後を追って歩き出した。


 一樹とセレナも、その背中を追う。


 町へ戻る途中も、若いドワーフは落ち着かない様子だった。


「昨日のことが町中へ広まってしまったんです。」


「酒場にいた者が話したんだな。」


 ガンツが静かに尋ねる。


「はい。」


「『長老が乾杯した。』って。」


「皆、それを聞いて驚いて……。」


 若いドワーフは言葉を詰まらせる。


「若い者の中には。」


「『もう乾杯してもいいじゃないか。』と言う者もいます。」


「ですが。」


「年配の職人たちは、『二度と同じ過ちは繰り返すな』と……。」


 一樹は黙って話を聞いていた。


 三百年という時間は長い。


 一度の出来事で簡単に埋まる溝ではないことは分かっていた。


 町へ戻ると、鍛冶場の前には大勢のドワーフが集まっていた。


「長老だ!」


「長老がお見えになったぞ!」


 人垣がゆっくりと左右へ開く。


 その中央では、二人の若い鍛冶師が睨み合っていた。


「俺はもう逃げたくない!」


 一人が叫ぶ。


「昨日見ただろ!」


「長老も店主も、笑って乾杯していた!」


 もう一人が怒鳴り返す。


「あれは事故だ!」


「だからこそ、もう二度とやるべきじゃない!」


「お前は先祖の教えを忘れる気か!」


「違う!」


「俺は先祖が笑って酒を飲んでいた頃を取り戻したいんだ!」


 二人の声が町中へ響く。


 一樹は言葉を失った。


 これは乾杯への賛成と反対ではない。


 どちらも、この町を大切に思っているからこその衝突だった。


 ガンツは二人の前まで歩み寄る。


 その場は自然と静まり返った。


 長老は若い鍛冶師たちを見つめ、ゆっくりと口を開いた。


「……互いに、一度落ち着け。」


 その静かな一言だけで、熱くなっていた二人は口を閉ざした。


 だが、その瞳の奥にある想いは、まだ少しも消えてはいなかった。


ガンツは二人の若い鍛冶師を静かに見つめた。


 怒鳴ることも、叱ることもしない。


 ただ、ゆっくりと口を開く。


「一つ聞こう。」


 二人は息を整えながら長老を見る。


「なぜ、そこまで言い争う。」


 先に口を開いたのは、乾杯を取り戻したいと叫んでいた若い鍛冶師だった。


「俺は……。」


「昨日、酒場にいました。」


「長老が笑ったのを見たんです。」


 ガンツは黙って頷く。


「俺。」


「生まれて初めて見ました。」


「長老が、あんな顔で笑うところ。」


 若い鍛冶師は拳を握る。


「だから思ったんです。」


「俺たちは。」


「何か大事なものまで失ってしまったんじゃないかって。」


 その言葉に、町のあちこちから小さなざわめきが起こる。


 もう一人の若い鍛冶師が、悔しそうに首を振った。


「俺は違う。」


「祖父から何度も聞かされて育った。」


「乾杯だけはするな。」


「仲間を信じすぎるな。」


「その教えを忘れたら、また同じことが起きるって。」


 声が少し震えていた。


「俺は……。」


「また誰かを失うのは嫌なんだ。」


 一樹は静かにその言葉を聞いていた。


 どちらも本音だった。


 どちらも、この町を思っている。


 だからこそ譲れない。


 ガンツはゆっくりと二人へ歩み寄る。


「……二人とも。」


「間違ってはおらん。」


 その一言に、若い鍛冶師たちは驚いたように顔を上げた。


「失いたくないという想いも。」


「取り戻したいという想いも。」


「どちらも、この町を大切に思う心じゃ。」


 ガンツは町の人々を見渡した。


「だからこそ。」


「儂にも話さねばならんことがある。」


 静かな声だった。


 だが、その場にいた全員の耳へ届いた。


「今夜。」


「町の者を集める。」


「三百年間、語らなかったことを話そう。」


 町中がざわつく。


 長老自ら町民を集めることなど、誰も予想していなかった。


 ガンツはゆっくりと一樹へ視線を向ける。


「酒井。」


「お主にも、いてもらいたい。」


 一樹は力強く頷いた。


「もちろんです。」


 ガンツは静かに目を閉じる。


 三百年間、閉ざしてきた言葉。


 三百年間、誰にも語らなかった想い。


 今夜、そのすべてに向き合う時が来ようとしていた。


次回に続く。

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