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酒で世界は救えますか? ~飲み過ぎで死んだ酒豪、異世界では乾杯ひとつで争いを終わらせます~  作者: 春野ケイ


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第24話 杯に託した想い

 酒場には、静かな時間が流れていた。


 誰一人として木杯に口をつけない。


 聞こえるのは、炉の火がはぜる音だけだった。


 ガンツは一樹をまっすぐ見つめる。


「酒井一樹。」


「お主は。」


「悪いのは乾杯ではないと言ったな。」


「はい。」


 一樹は静かに頷いた。


「その理由を聞かせてくれ。」


 店中の視線が一樹へ集まる。


 長老。


 店主。


 若い鍛冶師たち。


 皆、答えを待っていた。


 一樹は木杯を両手で包み込み、小さく笑う。


「難しい話はできません。」


「俺、ただのお酒好きなので。」


 その一言に、店主が思わず吹き出した。


「こんな時まで変わらんな。」


「変われませんよ。」


 一樹も苦笑する。


「でも。」


「だからこそ話せることがあります。」


 ゆっくりと木杯へ視線を落とす。


「俺。」


「前の世界でも、お酒が好きだったんです。」


 ドワーフたちは黙って耳を傾ける。


「嬉しいことがあった日も。」


「仕事で失敗した日も。」


「友達と笑った日も。」


「一人で落ち込んだ日も。」


「気付けば、お酒がありました。」


 一樹は少し照れくさそうに笑った。


「別に強いわけじゃありません。」


「高いお酒しか飲まないわけでもありません。」


「家で飲む缶のお酒も好きでした。」


「誰かと居酒屋で飲む時間も好きでした。」


「ただ。」


「お酒を飲んでいる時間が好きだったんです。」


 店主は小さく頷く。


「……分かる。」


 思わず漏れたその言葉に、自分自身が少し驚いたようだった。


 一樹は続ける。


「この世界へ来てからも同じでした。」


「オークの皆さんと飲んで。」


「王都の皆さんと飲んで。」


「ドワーフの皆さんとも、こうして飲めた。」


「俺は。」


「お酒が人を変えたとは思っていません。」


 一樹は店主を見る。


「人がいたから、お酒が美味しかった。」


「俺は、そう思っています。」


 ガンツは静かに目を閉じた。


 一樹の言葉には、誰かを説得しようという響きはない。


 ただ、自分が感じたことを、そのまま口にしているだけだった。


 だからこそ、不思議と胸に染み込んでくる。


 酒場には、誰も言葉を挟まない静かな時間が流れていた。


しばらく誰も口を開かなかった。


 炉の火が小さくはぜる音だけが、静かな酒場に響いている。


 やがてガンツが、ゆっくりと目を開いた。


「酒井。」


「一つ、聞いてもよいか。」


「はい。」


「お主は。」


「人間を恨んだことはないのか。」


 一樹は少しだけ驚いた表情を浮かべた。


「恨んだこと、ですか?」


「そうじゃ。」


「お主の世界でも、人は人を裏切るのであろう。」


 一樹は少し考え、静かに頷いた。


「あります。」


「裏切る人もいます。」


「約束を破る人もいます。」


「人を傷つける人もいます。」


 ガンツは黙って続きを待つ。


「でも。」


「優しい人も、同じくらいいました。」


「困っていたら助けてくれる人も。」


「何も言わずに隣にいてくれる人も。」


 一樹は少し照れくさそうに笑う。


「俺は、そういう人たちにもたくさん助けられました。」


 店主が木杯を見つめながら呟く。


「だが。」


「一度裏切られたら、信じるのは難しい。」


「……はい。」


 一樹は否定しなかった。


「それは、本当にそうだと思います。」


「俺だって同じ立場なら、きっと怖くなります。」


 ガンツがゆっくりと頷く。


「では。」


「なぜ、お主は乾杯を悪くないと言える。」


 一樹は木杯を手に取り、そっと撫でた。


「だって。」


「乾杯は、裏切るためにするものじゃないからです。」


 店内が静まり返る。


 一樹は続けた。


「もし乾杯が悪いものなら。」


「皆さんは今でも、あの日の宴を思い出したりしません。」


 ガンツの眉がわずかに動く。


「さっき長老は言いましたよね。」


「皆で笑って。」


「同じ料理を食べて。」


「同じ酒を飲んだって。」


「その思い出まで嘘だったとは、俺には思えません。」


 一樹はガンツを真っ直ぐ見つめた。


「裏切った人たちが悪いんです。」


「乾杯が悪かったわけじゃない。」


「だから。」


「皆さんは三百年前の裏切りを忘れられなくても。」


「三百年前の笑顔まで、忘れなくていいと思うんです。」


 その言葉に、ガンツはゆっくりと目を閉じた。


 あの日の笑顔。


 仲間たちの笑い声。


 人間の友と肩を組み、酒を酌み交わした夜。


 思い出すたびに胸が痛み、いつしか思い出すことさえやめてしまった。


 だが、一樹の言葉を聞いていると、不思議だった。


 胸に浮かぶのは、襲撃の光景ではない。


 宴の最中に響いていた笑い声だった。


 ガンツは静かに木杯へ視線を落とす。


 何百年もの間、閉ざしていた記憶が、少しずつ温もりを取り戻していくような気がしていた。


ガンツは静かに目を開いた。


 その瞳には、先ほどまでの険しさはなかった。


 代わりに、どこか遠くを見つめるような優しさが宿っていた。


「……笑っておったな。」


 ぽつりと漏れた一言だった。


「え?」


 一樹が聞き返す。


「儂らは。」


「あの日。」


「確かに笑っておった。」


 店主もゆっくりと頷く。


「旨い酒だった。」


「料理も旨かった。」


「人間も、ドワーフも。」


「皆、腹を抱えて笑っていました。」


 若いドワーフたちは驚いた表情で二人を見つめる。


「そんなこと……。」


「聞いたことがない。」


 ガンツは小さく笑う。


「話さなかったからな。」


「いや。」


「話せなかった。」


「思い出すのが苦しかった。」


 店主が続ける。


「だから儂らは。」


「乾杯だけじゃない。」


「あの日の笑顔まで、心の奥へ閉じ込めてしまった。」


 一樹は静かに頷いた。


「それは……。」


「すごくもったいないです。」


 誰も言葉を返さない。


 一樹は木杯を見つめながら続けた。


「俺だったら。」


「悲しい思い出より。」


「楽しかった思い出を、大事にしたい。」


「もちろん。」


「簡単じゃないのは分かります。」


「でも。」


「その日、皆さんが笑っていたことだけは、本当なんですよね。」


 ガンツはゆっくりと目を閉じる。


 頭の中に浮かぶのは、炎でも、悲鳴でもなかった。


 幼い自分へ酒を注いでくれた父。


 肩を叩きながら笑う兄。


 「また一緒に飲もう」と約束した人間の友。


 そして。


 皆で木杯を掲げた、あの一瞬。


 気付けば、口元が少しだけ緩んでいた。


 店主は、その表情を見て目を見開く。


「長老……。」


「久しぶりに見ました。」


「その顔を。」


 ガンツは照れくさそうに鼻を鳴らした。


「年寄りをあまり見るな。」


 酒場の空気が少しだけ和らぐ。


 重く沈んでいた空気が、ほんの少しだけ軽くなった。


 ガンツは一樹へ視線を向ける。


「酒井。」


「お主は。」


「面白い旅人じゃ。」


 一樹は苦笑した。


「よく言われます。」


 ガンツは小さく笑う。


「……明日。」


「少し付き合ってもらえんか。」


「儂が、お主に見せたい場所がある。」


 一樹は迷わず頷いた。


「もちろんです。」


「喜んで。」


 ガンツは静かに立ち上がる。


「では。」


「今日はもう休め。」


「続きは、明日話そう。」


 一樹も木杯を置き、ゆっくりと立ち上がった。


 酒場を出ると、山の夜風が心地よく頬を撫でる。


 隣を歩くセレナが、小さく微笑んだ。


「酒井さん。」


「今日のあなたは、お酒を飲みに来たというより。」


「皆さんの心を酔わせていましたね。」


 一樹は照れくさそうに笑う。


「そんなつもりはなかったんですけど。」


「ただ。」


「乾杯って、やっぱりいいものだなって。」


 夜空には、無数の星が瞬いていた。


 その光は、まるで三百年前から変わらず、この山々を静かに照らし続けているようだった。


次回に続く。

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