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酒で世界は救えますか? ~飲み過ぎで死んだ酒豪、異世界では乾杯ひとつで争いを終わらせます~  作者: 春野ケイ


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第23話 忘れられない一杯

 酒場は、水を打ったような静けさに包まれていた。


 さっきまで響いていた笑い声は消え、誰もが木杯を見つめている。


 一樹は戸惑いながら周囲を見回した。


「……どうしたんですか?」


 返事はない。


 店主だけが、自分の手にある木杯をじっと見つめていた。


「そんな……。」


 震えるような声が漏れる。


「本当に……。」


「盟約が発動した。」


 一樹は困ったように笑う。


「えっと……。」


「乾杯しただけですよね?」


 その一言で、酒場の空気がさらに張り詰めた。


 一人の若いドワーフが思わず立ち上がる。


「だから問題なんだ!」


 怒鳴りかけたその肩を、隣に座る年配のドワーフが静かに押さえた。


「座れ。」


「だが!」


「座れ。」


 低い一言だった。


 若いドワーフは悔しそうに唇を噛み締め、ゆっくりと席へ腰を下ろした。


 店主は深く息を吐く。


 そして一樹へ向き直った。


「旅人。」


「お前は、本当に何も知らないんだな。」


「はい。」


 一樹は真っ直ぐ頷いた。


「この町へ来たのも初めてです。」


「乾杯が駄目なことなんて、考えたこともありませんでした。」


 店主は苦笑する。


「そうだろうな。」


「その顔を見れば分かる。」


「悪気なんて欠片もない。」


 一樹は木杯を見つめた。


「すみません。」


「知らなかったとはいえ、俺が――」


「違う。」


 店主は首を横へ振る。


「謝る必要はない。」


「え……?」


「今の俺は、お前に嘘がつけん。」


 その言葉に、一樹は息をのんだ。


 乾杯の盟約。


 木杯を交わした瞬間に発動する、この世界の法則。


 一樹の脳裏に、一つの光景が浮かぶ。


 オークたちと初めて杯を交わした夜。


 互いに隠していた想いが自然と言葉になり、争いではなく語り合うことができた、あの日。


(あの時と……同じだ。)


 店主は木杯を見つめながら、小さく笑った。


「悪いのは、お前だけじゃない。」


「俺も悪い。」


「店主さんが?」


「ああ。」


 店主は自嘲するように肩をすくめる。


「お前の乾杯が、あまりにも自然だった。」


 一樹は首を傾げる。


「自然……ですか?」


「酒が運ばれて。」


「木杯を持ち上げて。」


「当たり前のように『乾杯』と言った。」


 店主はゆっくり目を閉じる。


「あの笑顔を見たらな。」


「気付けば、俺も木杯を上げていた。」


 静かな笑みが浮かぶ。


「何百年も。」


「いや……。」


「生まれてから一度も、自分から乾杯なんてしたことはなかったのにな。」


 その言葉に、酒場中のドワーフたちが俯いた。


「親父まで……。」


「まさか、本当に。」


「乾杯するなんて……。」


 一樹は木杯を静かに見つめる。


 自分にとって乾杯は、酒を囲む時の何気ない挨拶だった。


 嬉しい時も。


 初めて出会った人とも。


 酒があれば、ごく自然に口にする言葉。


 だが、この町では違う。


 その一言には、自分の知らない重みがあった。


「店主さん。」


 一樹は静かに問いかける。


「どうして皆さんは、そこまで乾杯を恐れるんですか。」


 店主は答えなかった。


 代わりに酒場の奥へ視線を向ける。


 そこには、胸まで伸びた白い髭を静かに撫でる一人の老ドワーフが座っていた。


 店の誰よりも年老いたその男は、ゆっくりと立ち上がる。


 店内の空気がさらに引き締まった。


「……もう隠せまい。」


 老ドワーフの低い声が、静かな酒場に響く。


「盟約を交わした以上。」


「真実を語らねばならん。」


 一樹は黙って老ドワーフを見つめた。


 長い年月、誰にも語られなかった過去が、今、静かに語られようとしていた。


老ドワーフはゆっくりと一樹たちの席へ歩み寄った。


 年老いてはいる。


 だが、その足取りは少しも衰えを感じさせない。


 店主は黙って席を立ち、その席を譲った。


「長老……。」


 誰かが小さく呟く。


 一樹は慌てて立ち上がり、一礼した。


「初めまして。」


「酒井一樹と申します。」


 老ドワーフは小さく頷く。


「儂はガンツ。」


「この町で長く生きてきた者だ。」


 一樹も腰を下ろす。


 ガンツは一樹の木杯を静かに見つめた。


「お主。」


「乾杯をする時、何を思って杯を上げた。」


 一樹は少しだけ考え、素直に答えた。


「この町へ来られたことです。」


「初めて飲むお酒。」


「初めて出会う人。」


「全部が嬉しくて。」


「だから。」


「出会いに感謝して乾杯しました。」


 ガンツは目を閉じる。


 そして、小さく息を吐いた。


「そうか。」


「やはり、そうであったか。」


 店主も苦く笑う。


「だから、つられたんです。」


「気付いたら。」


「儂も。」


 ガンツも静かに頷いた。


「乾杯とは、本来そういうものじゃ。」


「喜びを分かち合うためにある。」


「酒の旨さを確かめ合うためにある。」


「そして。」


「新しい縁に感謝するためにある。」


 一樹は黙って耳を傾ける。


 ガンツの言葉には、どこか懐かしさが滲んでいた。


「儂らも昔は、そうして酒を飲んでおった。」


「毎日のようにな。」


 一樹は驚いた。


「え?」


「じゃあ……。」


「昔は乾杯していたんですか?」


 酒場にいたドワーフたちが、一斉に俯く。


 店主も木杯を握り締めた。


 ガンツは静かに頷く。


「ああ。」


「毎日のように乾杯しておった。」


「家族とも。」


「友とも。」


「旅人とも。」


「人間ともな。」


 一樹の表情が変わる。


「人間とも……。」


「そうじゃ。」


 ガンツは遠くを見るように目を細めた。


「今から、およそ三百年前。」


「人間とドワーフは、今よりもずっと近しい間柄じゃった。」


「鍛冶で作った武具を人間へ渡し。」


「人間は麦や果実、布や薬草を持ってきてくれた。」


「互いに助け合い。」


「互いに笑い合っておった。」


 店主がぽつりと呟く。


「宴も、よく開かれていました。」


「仕事が終われば。」


「皆で酒を持ち寄って。」


「夜遅くまで飲み明かしたものです。」


 一樹は思わず笑みを浮かべる。


「それなら……。」


「今と同じだったんですね。」


 その笑みを見たガンツは、どこか悲しそうに目を細めた。


「……ああ。」


「今と同じじゃった。」


「いや。」


「今よりも、もっと笑顔があった。」


 その一言で、酒場の空気が静かに沈んでいく。


 ガンツは木杯を見つめながら、小さく呟いた。


「じゃが。」


「その一杯が。」


「儂らから乾杯を奪ったのじゃ。」


ガンツは静かに目を閉じた。


 まるで、遠い昔の景色を思い浮かべるように。


「その頃はな。」


「人間も、ドワーフも、互いを家族のように信じておった。」


 酒場にいた誰もが言葉を発しない。


 ただ、長老の声だけが静かに響いていた。


「鍛冶で良い剣が打てれば、人間の商人が祝いの酒を持ってきた。」


「豊作になれば、人間の村へ呼ばれ、皆で宴を開いた。」


「種族など関係なかった。」


「同じ卓を囲み。」


「同じ料理を食べ。」


「同じ酒を飲んだ。」


 一樹はその情景を思い浮かべる。


 人間とドワーフが笑いながら木杯を掲げる姿。


 今の酒場では考えられないほど、自然な光景だったのだろう。


 ガンツは木杯へ視線を落とした。


「ある年。」


「大きな鉱脈が見つかった。」


「儂らにとっても、人間にとっても、未来を変えるほどの鉱脈じゃった。」


 店主が小さく拳を握る。


「祝いの宴が開かれた。」


 ガンツは頷く。


「人間も。」


「ドワーフも。」


「皆が笑っておった。」


「旨い酒を飲み。」


「旨い飯を食い。」


「これからも共に歩もうと誓い合った。」


 その時だった。


 ガンツの声がわずかに震えた。


「木杯を掲げ。」


『乾杯。』


 その一言で、乾杯の盟約は結ばれた。


 その夜は誰一人争わず、笑い声だけが朝まで響いたという。


 一樹は静かに耳を傾ける。


 そんな宴なら、自分もきっと好きになっていただろう。


 ガンツは目を閉じたまま続ける。


「じゃが……。」


「宴は終わる。」


「酒も尽きる。」


「盟約も、やがて消える。」


 酒場の空気が張り詰める。


「盟約が消えた、その夜。」


「人間の一部が牙をむいた。」


 一樹は思わず息をのんだ。


「彼らの狙いは、鉱脈ではなかった。」


「儂らが代々守り続けてきた鍛冶の秘法。」


「それを奪うことだった。」


 店主が悔しそうに歯を食いしばる。


「盟約の間は手を出せない。」


「だから奴らは待った。」


「酒が尽きる、その瞬間を。」


 ガンツは静かに頷いた。


「信じておった。」


「最後まで、友だと。」


「じゃが……。」


「儂らが木杯を置いた次の瞬間。」


「刃が振り下ろされた。」


 店内に、重い沈黙が落ちる。


 誰一人として顔を上げない。


 あまりにも深い傷。


 何百年経っても癒えない理由が、一樹にも少しだけ分かった気がした。


ガンツは拳を静かに握り締めた。


 その節くれだった手は、小さく震えていた。


「儂の父も。」


「兄も。」


「その夜、帰っては来なかった。」


 店主は目を閉じる。


 酒場にいたドワーフたちも、誰一人顔を上げようとしない。


「鍛冶場は焼かれ。」


「秘伝の書は奪われ。」


「守ろうとした者たちは、次々と倒れていった。」


 ガンツはゆっくりと息を吐いた。


「もちろん。」


「全ての人間ではない。」


「儂らを守ろうとしてくれた人間もいた。」


「命懸けで止めようとした者もおった。」


「じゃが。」


「一度裏切られた心は、そう簡単には元へ戻らん。」


 一樹は何も言えなかった。


 ただ木杯を見つめる。


 自分が何気なく口にした『乾杯』という言葉。


 その一言が、この町では何百年も封じられてきた理由が、ようやく分かった。


 ガンツは静かに木杯へ手を添える。


「儂らは誓った。」


「もう二度と。」


「乾杯はしない、と。」


「盟約を結ばなければ。」


「裏切られることもない。」


「信じることもない。」


 店主が苦く笑う。


「それ以来、この町では子どもにも乾杯を教えん。」


「酒は教える。」


「酒の造り方も。」


「酒の楽しみ方も。」


「だが。」


「乾杯だけは、誰にも教えん。」


 一樹はゆっくりと顔を上げた。


 店内を見回す。


 どのドワーフも悲しそうな顔をしていた。


 怒っている者はいない。


 恨みを叫ぶ者もいない。


 あるのは、長い年月をかけても消えなかった後悔だけだった。


 一樹は木杯をそっと見つめる。


 静かな声で口を開いた。


「……違います。」


 その一言に、酒場中の視線が一樹へ集まる。


 ガンツも静かに目を開いた。


「何が違うと言う。」


 一樹はガンツを真っ直ぐ見つめる。


「悪かったのは。」


「乾杯じゃない。」


 酒場が再び静まり返る。


「裏切った人たちです。」


「乾杯は。」


「人を裏切るためのものじゃない。」


 一樹は木杯を握り締めた。


「俺は、そう思います。」


 ガンツは黙って一樹を見つめていた。


 その瞳には、驚きとも、戸惑いともつかない色が宿っている。


「……酒井一樹。」


 長老は静かにその名を呼んだ。


「その言葉の続きを。」


「儂らに聞かせてもらおう。」


 酒場に集まったドワーフたちも、一樹から目を離さなかった。


 何百年もの間、誰も口にしなかった言葉。


 その続きを聞こうと、誰もが息をのんでいた。


次回に続く。


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