第20話 旅立ち
王都の朝は、どこまでも澄んでいた。
窓から差し込む柔らかな陽射しが、一樹の旅支度を照らす。
背負い袋の中をもう一度確認する。
着替え。
保存食。
水袋。
そして、親方から譲り受けた木杯。
一樹は木杯を手に取り、小さく笑った。
「また、いろんな人と乾杯できるといいな。」
その木杯を大切に袋へしまうと、宿を後にした。
◇
最初に向かったのは酒蔵だった。
扉を開けると、いつものように酒の香りが鼻をくすぐる。
親方は樽を点検し、料理長は静かに帳面へ何かを書き込んでいた。
「あ、おはようございます。」
二人は同時に顔を上げる。
「来たか。」
親方はゆっくり歩み寄り、一樹の肩を軽く叩いた。
「いよいよ出発だな。」
「はい。」
「少し寂しいですけど。」
親方は豪快に笑う。
「何言ってやがる。」
「別れじゃねぇ。」
「また帰ってくりゃいい。」
一樹も笑顔で頷いた。
「そうですね。」
料理長は棚から一本の瓶を取り出し、一樹へ差し出す。
透き通る淡い黄金色。
王宮晩餐会で振る舞われた、あの白葡萄酒だった。
「持っていけ。」
一樹は驚いて目を見開く。
「いいんですか?」
「お前も造り手の一人だ。」
「持つ資格がある。」
瓶を受け取ると、ひんやりとした重みが手のひらへ伝わる。
一樹は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「大切にします。」
料理長は静かに首を振った。
「大切にしまうな。」
「大切な相手と飲め。」
その一言に、一樹は思わず笑みを浮かべた。
「はい。」
「そうします。」
親方は奥から小さな革袋を持ってきた。
「こっちも持ってけ。」
「これは?」
「干し肉だ。」
「道中、腹が減るだろ。」
一樹は思わず笑った。
「酒じゃないんですね。」
「酒は向こうで飲め。」
「せっかく旅するんだ。」
「その土地の酒を飲んでこい。」
一樹は力強く頷いた。
「もちろんです。」
「それが一番楽しみですから。」
その返事に、親方も料理長も思わず笑った。
「最後まで酒好きだな。」
「そこだけは変わらん。」
酒蔵に穏やかな笑い声が響く。
一樹はその景色をゆっくりと見回した。
赤蜜麦酒が生まれた場所ではない。
けれど、白葡萄酒と出会い、多くの人との縁を結んだ、大切な場所。
「本当に、お世話になりました。」
親方は照れくさそうに鼻を鳴らした。
「湿っぽい挨拶は苦手だ。」
「帰ってきたら。」
「また旨い酒を飲ませてやる。」
一樹は笑顔で頭を下げる。
「約束ですよ。」
酒蔵を出ると、朝の風が心地よく頬をなでた。
次に向かうのは、王都の門。
そこで村長やセレナ、そして最後の見送りが待っていた。
王都の門へ向かう道は、朝から多くの人で賑わっていた。
荷馬車が行き交い、旅人たちがそれぞれの目的地へと歩き出していく。
一樹が門へ着くと、そこには見慣れた顔が待っていた。
「酒井さん。」
村長が穏やかな笑みを浮かべる。
「村長。」
一樹も自然と笑顔になった。
王都へ来てからというもの、村長には何度も助けられた。
初めての王都で戸惑うことばかりだった自分を、いつも落ち着いた言葉で支えてくれた。
「いよいよ旅立ちですね。」
「はい。」
「少し緊張しています。」
村長は優しく頷く。
「酒井さんなら大丈夫です。」
「あなたは、行く先々で人と人をつないでいく方ですから。」
一樹は照れくさそうに笑った。
「そんな立派なものじゃありませんよ。」
「俺は、ただ美味しいお酒を飲みたいだけです。」
その一言に、村長は思わず笑みをこぼした。
「その『ただ』が、人を笑顔にしているんですよ。」
一樹は少し照れながら頭をかく。
「帰ってきたら、また村にも顔を出します。」
「もちろんです。」
「皆、酒井さんの帰りを楽しみにしています。」
二人は固く握手を交わした。
その時、鎧の擦れる音が近付いてくる。
「お待たせしました。」
振り返ると、女性騎士が一礼した。
旅装用の軽装鎧に身を包み、腰には一本の剣。
王都で見慣れた姿とは少し違い、どこか旅人らしい雰囲気だった。
「本日より、旅の護衛を務めます。」
一樹は慌てて姿勢を正す。
「よろしくお願いします。」
女性騎士は小さく微笑んだ。
「改めまして。」
「セレナ・アルディスです。」
「これからよろしくお願いいたします。」
一樹は一瞬目を丸くすると、すぐに笑顔になった。
「こちらこそ。」
「よろしくお願いします、セレナさん。」
セレナは少しだけ照れたように微笑み、小さく頷いた。
こうして、一樹はようやく彼女の名前を知った。
王都で何度も顔を合わせ、一緒に酒を飲み、笑い合った相手。
それでも今までは『女性騎士さん』としか呼べなかった。
名前を知っただけなのに、不思議と少し距離が縮まった気がした。
門の外では、旅に使う馬車が静かに待っていた。
いよいよ、新しい旅が始まる。
馬車の前では、御者が出発の準備を進めていた。
荷物を積み終え、馬具の最終確認をしている。
セレナも馬車へ向かおうとした、その時だった。
「酒井。」
聞き慣れた低い声が響く。
一樹が振り返る。
「団長。」
王都の門の前に、観察騎士団長が立っていた。
いつもと変わらぬ表情。
腕を組み、一樹を静かに見つめている。
「見送りですか?」
「……ああ。」
それだけだった。
それでも、一樹は嬉しかった。
「王都では、本当にお世話になりました。」
団長は少しの間、一樹を見つめる。
「最初は、お前を信用していなかった。」
「当然です。」
一樹は苦笑しながら頷く。
「俺だって、急に異世界から来たなんて言われても信じません。」
団長は小さく鼻を鳴らした。
「だが。」
「今は違う。」
短い言葉だった。
けれど、その一言には団長らしい誠実さが込められていた。
一樹は自然と笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。」
団長は一歩近づき、一樹の肩へ軽く手を置いた。
「酒井。」
「はい。」
「無茶はするな。」
「……はい。」
「セレナ。」
「はっ。」
セレナが姿勢を正す。
「酒井を頼んだ。」
「必ず、ご無事でお連れいたします。」
団長は満足そうに頷いた。
そして、一樹へ視線を戻す。
「帰ってきたら。」
少しだけ間を置く。
「また一杯付き合え。」
一樹は満面の笑みで頷いた。
「はい!」
「約束です!」
団長は小さく口元を緩める。
「忘れるな。」
「もちろんです。」
御者が手綱を握る。
「出発します!」
馬がゆっくりと歩き始めた。
一樹は馬車から身を乗り出し、大きく手を振る。
「行ってきます!」
村長が笑顔で手を振り返す。
親方は腕を上げるだけだったが、その表情はどこか嬉しそうだった。
料理長も静かに一礼する。
団長は腕を組んだまま、小さく頷いた。
王都の城門が少しずつ遠ざかっていく。
一樹はその景色を見つめながら、小さく息を吐いた。
(帰ってくる場所が、一つ増えたな。)
前の世界では、酒を飲んでも一人だった。
この世界では違う。
酒を通して出会い、笑い合い、「また一杯」と約束できる仲間ができた。
それが、たまらなく嬉しかった。
「酒井さん。」
隣でセレナが口を開く。
「これから向かう山岳地帯には、ドワーフたちが暮らしています。」
「鍛冶の技術に優れ、酒をこよなく愛する種族です。」
一樹の目が輝く。
「酒好きなんですか!」
「はい。」
「それは楽しみです!」
セレナは思わず吹き出した。
「ふふっ。」
「やっぱり最初に気になるのは、お酒なんですね。」
「もちろんです。」
一樹は胸を張る。
「酒があれば、人と仲良くなれますから。」
その言葉を乗せて、馬車は王都をあとにする。
その先に待つのは、酒を愛しながらも、決して乾杯をしない種族。
一樹はまだ、その理由を知らない。
新たな出会いへ向けて、馬車は山々の連なる西の大地へと走り始めた。
次回へ続く




