幕間① 王都の夜に酔う
白葡萄酒の仕込みが終わって数日。
酒蔵には、不思議な静けさが流れていた。
職人たちは樽の様子を確かめるくらいで、慌ただしく動き回る姿はない。
一樹は手持ち無沙汰そうに酒蔵を見回した。
「……本当にやることないんですね。」
親方は樽を軽く叩きながら笑う。
「あるさ。」
「待つことだ。」
「酒は今、人の代わりに働いてる。」
一樹は苦笑した。
「酒って、思ったよりのんびりなんですね。」
「だから旨くなる。」
親方はそう言って樽を見つめる。
「焦らせた酒に、旨い酒はねぇ。」
料理長も小さく頷いた。
「あとは酒を信じろ。」
「俺たちにできることは、それくらいだ。」
一樹は大きく伸びをする。
「じゃあ今日は休みですね。」
「そうなるな。」
「ありがとうございます!」
一樹は勢いよく酒蔵を飛び出した。
その姿を見送りながら、親方が笑う。
「本当に酒好きな男だ。」
料理長も珍しく口元を緩めた。
「飲むことも、あいつにとっては勉強なのだろう。」
◇
王都の石畳を歩いていると、見回りを終えた女性騎士と鉢合わせた。
「あ。」
一樹は手を振る。
「女性騎士さん!」
女性騎士は少し驚いたように立ち止まる。
「酒井さん。」
「今日はお休みですか?」
「はい。」
一樹は笑顔で頷く。
「酒蔵も今日はやることがなくて。」
「せっかくなので、王都のお酒を飲み歩こうと思ってます。」
女性騎士は少しだけ目を丸くした。
「飲み歩き、ですか。」
「はい。」
「王都にはいろんなお酒があるって聞いたので。」
一樹は少し照れくさそうに笑う。
「酒好きとしては、見逃せません。」
女性騎士は思わず笑みを浮かべる。
「本当に、お酒がお好きなんですね。」
「大好きです。」
一樹は即答した。
「飲んだことのないお酒を見ると、つい飲んでみたくなるんですよ。」
そのあまりにも迷いのない返事に、女性騎士は小さく吹き出した。
「それでは。」
「もしお時間がありましたら、一緒にどうですか?」
「一人で飲むより、誰かと飲んだ方が美味しいですから。」
女性騎士は少し考えたあと、穏やかに頷く。
「では、お付き合いします。」
「ありがとうございます!」
一樹は嬉しそうに笑った。
「まずは、一軒目です!」
二人は並んで、昼間から賑わう王都の酒場通りへ歩き出した。
石造りの建物が軒を連ね、その一階には大小さまざまな酒場が並んでいる。
甘い果実酒の香り。
香ばしく焼けた肉の匂い。
楽しそうな笑い声。
一樹は目を輝かせた。
「……ここ、天国ですね。」
最初に入ったのは、路地裏にある小さな酒場だった。
木の看板には、可愛らしい蜂の絵が描かれている。
「いらっしゃい。」
店の奥から、白髪の店主が穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「おや。」
「見ない顔だね。」
一樹は軽く頭を下げる。
「最近王都へ来たばかりなんです。」
「今日は王都のお酒を飲んでみたくて。」
店主は嬉しそうに笑った。
「それなら、うちから始めるのは正解だ。」
「まずはこれだね。」
そう言って差し出されたのは、透き通った黄金色の酒だった。
「蜂蜜酒さ。」
「王都じゃ昔から親しまれてる酒だよ。」
一樹は木杯を受け取る。
ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
「いただきます。」
一口飲む。
「……!」
思わず目を見開く。
「甘い!」
「でも、後味がすっきりしてる。」
店主は満足そうに頷いた。
「蜂蜜だけじゃなく、少しだけ果実も合わせてるからね。」
「飲みやすいだろ?」
「めちゃくちゃ飲みやすいです。」
一樹は嬉しそうにもう一口飲んだ。
「これ、危ないお酒ですね。」
「気付いたら何杯も飲んじゃいそうです。」
その言葉に、店中から笑いが起こる。
「兄ちゃん、分かってるじゃねぇか!」
昼間から飲んでいた常連客が笑いながら声を掛けてきた。
「俺なんか、それで毎回飲みすぎる。」
一樹も思わず笑った。
「仲間ですね。」
女性騎士も恐る恐る木杯を口元へ運ぶ。
一口。
そして少し驚いたように目を丸くした。
「……美味しい。」
「甘いのに、甘すぎません。」
一樹は嬉しそうに頷く。
「でしょ!」
「お酒って、本当にいろんな味がありますよね。」
店主は二人を見ながら微笑んだ。
「旨い酒は、一人で飲むより誰かと飲む方がもっと旨くなる。」
「それは昔から変わらんよ。」
一樹は木杯を持ち上げた。
「それじゃ。」
「乾杯。」
女性騎士も自然と木杯を掲げる。
「乾杯。」
木杯が小さく触れ合い、心地よい音が響いた。
その様子を見ていた常連客が立ち上がる。
「兄ちゃんたち!」
「俺とも乾杯してくれ!」
「もちろんです。」
一樹は笑顔で木杯を掲げた。
「乾杯!」
「乾杯!」
気付けば、店中の客が笑いながら木杯を掲げていた。
誰も名前は知らない。
それでも、同じ酒を飲めば自然と笑い合える。
一樹は蜂蜜酒をもう一口飲み、思わず頬を緩めた。
「やっぱり、お酒って最高だな。」
二人が次に入ったのは、炭火の香りが店先まで漂う肉料理専門の酒場だった。
店内では豪快に肉を焼く音と、客たちの笑い声が響いている。
「いらっしゃい!」
威勢のいい店主が手を振った。
「空いてる席、好きに使ってくれ!」
一樹は店の空気を吸い込むと、思わず笑みを浮かべる。
「いい匂いだ……。」
「これは期待できます。」
女性騎士も周囲を見渡し、小さく笑う。
「さっきのお店とはまるで違いますね。」
「酒場って、お店ごとに雰囲気が全然違うんですよ。」
一樹は嬉しそうに席へ座る。
「だから飲み歩きはやめられないんです。」
店主は大きな木杯を二つ運んできた。
「うちのおすすめは黒麦酒だ!」
「肉を食うなら、これしかねぇ!」
深い琥珀色の酒。
一樹は香りを確かめる。
「さっきより香ばしい。」
一口飲む。
「……おお。」
「苦い。」
「でも、そのあとに麦の香りが広がる。」
店主が腕を組んで笑う。
「その顔が見たかった!」
「初めて飲む奴は、みんなそう言う!」
女性騎士も一口。
「これは……。」
「大人のお酒ですね。」
一樹は思わず笑った。
「蜂蜜酒とは真逆ですね。」
そこへ焼きたての骨付き肉が運ばれてくる。
「これと一緒に食ってみな。」
一樹は肉を頬張り、そのまま黒麦酒を流し込む。
「……!」
思わず立ち上がりそうになる。
「すごい!」
「苦味が肉の脂を流してくれる!」
「だから、また肉が食べたくなる!」
店主は豪快に笑った。
「そうだろ!」
「だから黒麦酒は肉と一緒なんだ!」
隣の席では、仕事帰りらしい大工たちがその様子を見て笑っていた。
「兄ちゃん。」
「いい飲みっぷりだな。」
一樹は照れくさそうに笑う。
「お酒が好きなだけです。」
「それなら一杯付き合え!」
大工の一人が木杯を掲げる。
一樹も迷わず掲げた。
「乾杯!」
「乾杯!」
木杯が勢いよくぶつかり合う。
名前も知らない。
仕事も知らない。
それでも、一杯の酒があれば自然と笑い合える。
女性騎士はその様子を静かに見つめ、小さく口元を緩めた。
「酒井さん。」
「はい?」
「どこの酒場へ行っても、すぐに友達を作りますね。」
一樹は黒麦酒を飲みながら笑う。
「違いますよ。」
「友達じゃありません。」
「今日はたまたま、同じお酒を飲んでる仲間です。」
その言葉に、大工たちは嬉しそうにもう一度木杯を掲げた。
「それが一番いい!」
「乾杯!」
酒場中に、また笑い声が響いた。
三軒目は、色とりどりの瓶が棚いっぱいに並ぶ果実酒専門店だった。
店に入ると、甘酸っぱい果実の香りがふわりと漂う。
「いらっしゃいませ。」
若い女性店主がにこやかに迎える。
「飲み比べはいかがですか?」
一樹の目が輝いた。
「飲み比べ!」
「そういう言葉、大好きです。」
女性騎士は思わず吹き出す。
「本当に嬉しそうですね。」
「だって、いろんな味を一度に楽しめるじゃないですか。」
店主は笑いながら、小さな木杯を四つ並べた。
「今日は人気の果実酒を少しずつどうぞ。」
「林檎酒。」
「桃酒。」
「木苺酒。」
「そして、梨酒です。」
「梨のお酒まであるんですか。」
一樹は驚きながら林檎酒を口にした。
「爽やかだ。」
「食後に飲みたくなる。」
次に桃酒。
「甘い……けど、くどくない。」
木苺酒。
「少し酸っぱい。」
「これも美味しい。」
最後に梨酒。
一樹は目を丸くした。
「これ好きです。」
「派手じゃないのに、何杯でも飲めそう。」
店主は嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます。」
「実は一番人気なんですよ。」
女性騎士も一つひとつ味わいながら、小さく頷いた。
「全部違うんですね。」
「同じ果実酒でも、こんなに。」
一樹は木杯を眺めながら笑う。
「面白いですよね。」
「同じ酒でも造る人が違えば味が変わる。」
「同じ果物でも味が変わる。」
「だから飽きないんです。」
店主は感心したように一樹を見つめる。
「酒井さんは、本当にお酒がお好きなんですね。」
「好きですね。」
一樹は迷いなく頷く。
「強い酒だから好きとか、高い酒だから好きじゃない。」
「美味しそうに造ろうとした人がいる酒なら、一度は飲んでみたくなるんです。」
その言葉に、店主は少し照れたように笑った。
「そんなふうに言っていただけると、造り手も嬉しいでしょうね。」
一樹は四つ並んだ木杯を見渡し、満足そうに息をついた。
「王都って、本当にいい街ですね。」
「まだ三軒しか回ってないのに、全部違う。」
「今日は何軒行けるかな。」
女性騎士は呆れたように笑う。
「まだ行くつもりなんですか。」
「もちろんです。」
一樹は立ち上がる。
「せっかくの休日ですから。」
「今日は王都のお酒を飲み尽くすくらいの気持ちで行きます!」
その宣言に、店主も店の客たちも思わず笑い声を上げた。
日が傾き始めた頃。
一樹たちは、王都で最も賑わう酒場へ足を運んだ。
扉を開けた瞬間、笑い声が一気に押し寄せる。
冒険者。
商人。
職人。
旅人。
年齢も仕事も違う者たちが、同じ酒場で杯を傾けていた。
「ここが最後にぴったりですね。」
一樹は嬉しそうに辺りを見回す。
店員に案内されて席へ座ると、近くの席から声が飛んできた。
「兄ちゃん。」
「昼から飲み歩いてるのか?」
一樹は笑って頷く。
「はい。」
「王都のお酒を知りたくて。」
「いい心掛けだ!」
豪快に笑った男は、自分の木杯を掲げた。
「じゃあ、旅人に一杯!」
一樹も迷わず木杯を持ち上げる。
「乾杯!」
「乾杯!」
隣の席でも木杯が上がる。
「こっちも混ぜろ!」
「乾杯!」
そのまた隣も。
「乾杯!」
気付けば、酒場のあちこちで笑い声が響いていた。
女性騎士はその様子を眺め、小さく微笑む。
「酒井さん。」
「はい?」
「不思議ですね。」
「皆さん、初対面なのに楽しそうです。」
一樹は木杯を見つめながら笑う。
「お酒って、そういうものなんだと思います。」
「美味しい酒を飲むと。」
「自然と誰かに話しかけたくなる。」
「誰かと笑いたくなる。」
女性騎士は静かに頷いた。
「だから酒場には、人が集まるんですね。」
「そうかもしれません。」
その時、店の奥から白髪の老人が歩いてきた。
「若いの。」
「今日は何軒回った。」
一樹は指を折りながら数える。
「四軒目です。」
「まだ四軒か!」
老人は豪快に笑う。
「王都には、まだまだ旨い酒が山ほどあるぞ!」
一樹は思わず目を輝かせた。
「本当ですか!」
「じゃあ、また来ないと。」
老人は木杯を掲げる。
「いつでも来い。」
「王都の酒場は、酒好きなら誰でも歓迎だ。」
一樹も笑顔で木杯を掲げ返した。
「ありがとうございます。」
「乾杯!」
「乾杯!」
木杯が重なり合う音が、酒場いっぱいに広がる。
その音を聞きながら、一樹は静かに思った。
王都には、数え切れないほどの酒がある。
けれど、一番心に残ったのは酒の名前でも味でもない。
どの店でも、誰かが笑って「乾杯」と言ってくれたことだった。
それだけで、その一杯は少しだけ特別な味になる。
そんな気がした。
酒場を出ると、王都は夕暮れに包まれていた。
石畳には長い影が伸び、昼間とは違う穏やかな賑わいが街を包んでいる。
一樹は満足そうに大きく息を吐いた。
「楽しかったぁ。」
女性騎士が思わず笑う。
「今日はずいぶん飲みましたね。」
「どのお酒も個性があって、本当に面白かったです。」
一樹は王都の酒場通りを振り返った。
「同じお酒なんて、一つもありませんでした。」
「造る人が違えば味も違う。」
「飲む人が違えば楽しみ方も違う。」
「だから、お酒は飽きないんですよね。」
女性騎士は静かに頷く。
「酒井さんがお酒を好きな理由が、少し分かった気がします。」
一樹は照れくさそうに笑った。
「飲むことも好きですけど。」
「そのお酒が、どんな人に飲まれてきたのか想像するのも好きなんです。」
二人は並んで歩き出す。
その時だった。
一樹がぴたりと足を止める。
「……どうしました?」
女性騎士が尋ねると、一樹は通りの向こうをじっと見つめていた。
「あれ。」
視線の先には、小さな酒場。
店先には木の看板が立てられている。
『本日限定 新酒あります』
一樹はごくりと唾を飲み込んだ。
「……気になります。」
女性騎士は呆れたようにため息をつく。
「さっき、『今日は満足です』と言っていたのは誰でしたか?」
「俺です。」
「では?」
「新酒は別です。」
「別ではありません。」
「いや、これは見過ごせません。」
「見過ごしてください。」
二人はしばらく見つめ合う。
やがて女性騎士が小さく笑った。
「……一杯だけですよ。」
一樹の表情がぱっと明るくなる。
「本当ですか!」
「ありがとうございます!」
子どものような笑顔で酒場へ向かう一樹を見て、女性騎士は苦笑した。
「本当に、お酒が好きなんですね。」
夕暮れの王都には、今日もどこかで楽しそうな「乾杯」の声が響いていた。
――幕間① 王都の夜に酔う 終




