第2話 乾杯の盟約
怒号が大地を震わせた。
「前へ出ろ!」
「オークどもを村へ入れるな!」
剣と斧がぶつかり合い、火花が散る。
村の入口では、人間たちが必死に防衛線を築いていた。その向こうには、棍棒や斧を構えた十数体のオークが睨みを利かせている。
酒井一樹は、その光景をぽかんと見つめていた。
「……いやいや。」
「異世界って、もっとこう……街で目が覚めるとかじゃないの?」
転生した瞬間に戦場。
あまりにも雑なスタートに思わず苦笑する。
「そこのあなた!」
鋭い声が飛んだ。
一樹が振り向くと、一人の女性騎士が駆け寄ってくる。
銀色の鎧に青いマント。
栗色の髪を後ろで束ねた、二十代前半ほどの女性だった。
「何をしているんです!」
「ここは危険です! 早く下がってください!」
「危険なのは分かるけど……。」
一樹はオークたちへ目を向ける。
「なんで戦ってるの?」
騎士は一瞬だけ目を丸くした。
「なんでって……。」
「村を襲ってきたからです。」
「オークは危険な魔物です。」
「追い返さなければ村が滅びます。」
一樹は首を傾げた。
「本当に?」
「……え?」
「俺には、そうは見えない。」
騎士は眉をひそめる。
「何を根拠に。」
「顔。」
「顔?」
「酒場で何度も見てきたんだ。」
「追い詰められた人の顔って、だいたい同じなんだよ。」
オークたちの表情は怒っている。
けれど、その奥には焦りがあった。
何かに怯え、必死に耐えているような目。
略奪を楽しむ者の目ではない。
その時だった。
ゴロゴロ、と木樽が転がる音が響く。
荷車から落ちたらしい。
樽の栓が少し外れ、甘く香ばしい香りが風に乗った。
一樹の鼻がぴくりと動く。
「……酒だ。」
吸い寄せられるように近寄る。
香りを確かめる。
「麦がベース……。」
「でも果実も使ってる。」
「樽はオーク材か。」
「面白いな。」
騎士は呆れたようにため息をついた。
「こんな時に酒ですか?」
「こんな時だからだよ。」
一樹は笑って酒樽を軽く叩く。
「酒ってさ。」
「仲がいい奴と飲んでも楽しい。」
「でも、本当に価値があるのは――仲が悪い奴と飲む一杯なんだ。」
「何を言ってるんですか!」
「相手はオークですよ!」
「だから。」
一樹は酒樽を肩に担ぐ。
「話してみないと分からない。」
「ちょっ……!」
騎士が止める間もなく、一樹は戦場の真ん中へ歩き始めた。
人間たちがざわめく。
「あいつ正気か!?」
「戻れ!」
「殺されるぞ!」
一方、オークたちも武器を構え直す。
やがて、一際大きなオークが前へ出た。
右目に古い傷を持つ、族長らしき男だった。
「……人間。」
低い声が響く。
「何をしに来た。」
一樹は立ち止まり、酒樽をゆっくりと地面へ降ろす。
そして、いつものように笑った。
「ケンカは後でもできる。」
「まずは、一杯どうだ?」
その場にいた全員の動きが止まった。
人間も。
オークも。
騎士も。
まるで、一樹が意味の分からない呪文でも唱えたかのように固まっている。
「……お前。」
族長が低く唸る。
「人間。」
「それが、どういう意味か……。」
「分かって言っているのか?」
一樹は首をかしげた。
「意味?」
「ああ。」
「酒を飲もうって意味だけど。」
族長は黙ったまま一樹を見つめる。
やがて、その顔が驚きへと変わっていった。
「……知らないのか。」
「何を?」
族長は隣の若いオークへ視線を向ける。
「樽を持ってこい。」
「族長!?」
「本気ですか!?」
「いいから持ってこい。」
若いオークは戸惑いながらも、小さな木樽を運んできた。
一方、人間側は騒然としていた。
「お、おい!」
「何をしている!」
「飲むな!」
「罠だ!」
女性騎士は一樹のもとへ駆け寄ろうとする。
しかし、その前に族長が静かに口を開いた。
「人間の騎士。」
「……止まれ。」
「なぜ止まらなければ――」
「こいつは。」
族長は一樹を見つめたまま言った。
「酒を勧めた。」
その一言だけで、騎士の表情が変わる。
「まさか……。」
唇が震えていた。
「そんな……。」
一樹だけが話についていけない。
「だから何なんだ?」
族長は酒樽から木の杯へ酒を注ぐ。
淡い琥珀色の酒だった。
甘い香りの奥に、どこか香ばしさがある。
思わず一樹の口元が緩む。
「いい香りだ。」
「お前、本当に酒好きだな。」
族長が初めて笑った。
「じゃあ飲もう。」
一樹は自然に杯を受け取る。
その瞬間だった。
「だ、駄目ですぇぇぇぇ!」
女性騎士が悲鳴のような声を上げる。
「飲まないでください!」
「え?」
「お願いですから、その杯を置いてください!」
「なんで?」
「そんなことをしたら……!」
彼女が言い終わる前に、族長は自分の杯を掲げた。
「人間。」
一樹もつられて杯を持ち上げる。
「じゃあ。」
「乾杯。」
カチン。
木の杯同士が、小さく触れ合った。
――その瞬間。
世界が静まり返った。
風が止む。
剣を振り上げていた兵士の腕が止まる。
斧を構えていたオークの肩から力が抜ける。
空気そのものが変わった。
人間も。
オークも。
誰一人として、武器を動かせない。
女性騎士は震える声で呟いた。
「発動した……。」
「《乾杯の盟約》が……。」
一樹はきょとんとした顔で周囲を見回す。
「……え?」
「何これ。」
「みんな、どうしたんだ?」
その問いに答えたのは、族長だった。
彼は静かに杯を口へ運び、一口だけ酒を飲む。
そして深く息を吐く。
「もう……。」
その目から、張り詰めていた敵意が少しだけ消えた。
「もう、戦いたくないんだ。」
その一言に、人間たちもオークたちも息をのんだ。
静寂が戦場を包んだ。
ついさっきまで飛び交っていた怒号が、嘘のように消えている。
一樹は杯を見つめ、それから族長を見た。
「今の……本音か?」
「ああ。」
族長は苦く笑う。
「《乾杯の盟約》の席では、嘘はつけん。」
「……乾杯の盟約?」
「知らずに杯を交わしたのか。」
族長だけでなく、村人たちまで信じられないものを見るような顔をしていた。
女性騎士は額に手を当て、大きく息を吐く。
「信じられません……。」
「この世界の子どもでも知っている常識ですよ。」
「え、そうなの?」
「はい。」
彼女はまだ警戒を解かないまま説明を始めた。
「《乾杯の盟約》とは、酒神がこの世界に残した最も古い盟約です。」
「互いに酒を酌み交わし、乾杯した者同士は、酒宴が終わるまで武器を向けることができません。」
「それだけではありません。」
「酒が進むほど、心にある偽りも消えていきます。」
「だから昔から、国同士の交渉も、大きな契約も、最後は必ず酒席で行われるんです。」
一樹は思わず口を開けた。
「そんな便利なルールがあるのか……。」
「便利ではありません。」
女性騎士は首を横に振る。
「重い約束なんです。」
「だから敵と乾杯するなんて、普通はありえません。」
その言葉に、族長も静かに頷いた。
「酒を勧めた時は驚いた。」
「人間が我らへ杯を差し出すなど、何十年ぶりか。」
一樹は照れくさそうに頭をかく。
「そんなつもりじゃなかったんだけどな。」
「酒があったから、飲もうって思っただけ。」
族長は大きく笑った。
「はははっ!」
「本当に変わった人間だ。」
その笑い声に釣られるように、周囲のオークたちの表情も和らいでいく。
一方、人間側はまだ戸惑っていた。
武器は持っている。
だが、誰一人として前へ踏み出せない。
盟約の力が、争いを止めているのだ。
一樹は族長へ杯を向けた。
「それで?」
「戦いたくないなら、なんで村へ来たんだ?」
族長の笑顔が消える。
しばらく黙り込んだあと、酒を一口飲み、静かに口を開いた。
「……子どもたちが。」
「飢えている。」
「今年は山の実が一つも実らなかった。」
「獲物も姿を消えた。」
「三日、何も食べていない子もいる。」
一樹は息をのむ。
女性騎士も目を見開いていた。
「だから……。」
族長は拳を握り締める。
「食料を分けてほしいと何度も頼んだ。」
「だが、人間は門を閉ざした。」
「我らも限界だった。」
その言葉に、村人たちがざわめく。
「そんな話……。」
「聞いてないぞ。」
「使者なんて来ていない!」
今度はオークたちが驚いた顔をした。
「……来ていない?」
互いの表情を見た一樹は、ゆっくりと杯を置いた。
そして小さく笑う。
「どうやら。」
「酒を飲む前に、もう一つ足りなかったみたいだな。」
「話し合いが。」
次回
第3話「一杯が暴く嘘」




