第18話 白き一杯
三週間後。
一樹は料理長とともに、再び白葡萄畑を訪れていた。
朝日に照らされた畑は、以前とは少し景色が違って見えた。
実を減らした一区画。
そこだけが、静かな自信をまとっているようだった。
葡萄農家の老人は、一房の白葡萄を手に取り、静かに頷く。
「採るぞ。」
収穫が始まった。
職人たちが丁寧に房を切り取り、傷つけないよう木箱へ並べていく。
一樹も一房ずつ両手で受け取り、大切に箱へ収めた。
「酒井。」
老人が一房を差し出す。
「食べてみろ。」
「はい。」
一樹は一粒口へ運んだ。
ぷつり、と皮が弾ける。
口いっぱいに果汁が広がった。
「……。」
一樹はゆっくりと目を閉じる。
甘い。
だが、それだけではない。
心地よい酸味が後から追いかけ、甘さを引き締めている。
以前に食べた白葡萄より、味に輪郭があった。
「美味しい。」
思わず笑みがこぼれる。
「前より、ずっと。」
料理長も一粒口へ運ぶ。
静かに噛みしめると、小さく頷いた。
「甘みが増した。」
「それでいて酸が生きている。」
老人は照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「まだ一区画だけだ。」
「偉そうにするほどじゃない。」
そう言いながらも、その表情には隠しきれない喜びが浮かんでいた。
一樹は頭を下げる。
「ありがとうございます。」
「俺の思いつきを信じてくれて。」
老人は首を横へ振る。
「違う。」
「お前の思いつきを信じたんじゃない。」
「試してみる価値があると思っただけだ。」
「酒造りも畑も。」
「やってみなきゃ分からん。」
一樹はその言葉に、大きく頷いた。
「そうですね。」
「それが職人なんですね。」
老人は初めて声を出して笑った。
「少しは分かってきたじゃないか。」
収穫を終えた木箱が荷馬車へ積まれていく。
料理長はその様子を見届けると、一樹へ振り返った。
「行くぞ。」
「次は酒蔵だ。」
一樹は荷馬車に積まれた白葡萄を見つめ、小さく拳を握る。
畑で育てた実。
酒蔵で見つけた新しい製法。
どちらか一つだけでは、この酒は生まれない。
その両方が、今日一つになる。
馬車はゆっくりと王都の酒蔵へ向かって走り出した。
酒蔵へ戻ると、親方は荷馬車いっぱいに積まれた白葡萄を見て目を細めた。
「来たか。」
「待ってました。」
職人たちも手を止め、次々と集まってくる。
「これが例の葡萄か。」
「見た目から違うな。」
料理長は木箱から一房取り出し、親方へ手渡した。
「食べてみろ。」
親方は一粒口へ運ぶ。
ゆっくりと噛みしめ、しばらく何も言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「……なるほど。」
「違うな。」
「前より甘い。」
「だが、甘ったるくない。」
「酒向きだ。」
その一言に、葡萄農家の老人は腕を組んだまま、小さく笑った。
「一区画だけだがな。」
「それで十分だ。」
親方は頷くと、大きな声で職人たちへ指示を飛ばした。
「始めるぞ!」
酒蔵が一気に動き始める。
白葡萄を丁寧に洗う者。
傷んだ実を選り分ける者。
搾る準備をする者。
一樹も袖をまくった。
「俺も手伝います。」
「頼む。」
親方は笑う。
「今日は人手が多いほど助かる。」
酒造りは力仕事だった。
葡萄を運び、選び、搾る。
一つひとつの作業を、誰一人手を抜かない。
一樹は額の汗をぬぐいながら、その姿を見ていた。
(やっぱり酒は、一人じゃ造れない。)
赤蜜麦酒を造った時もそうだった。
村人。
オーク。
酒蔵の親方。
皆がいたから、一杯が生まれた。
そして今も同じだ。
葡萄農家。
酒蔵の職人。
料理長。
誰か一人欠けても、この酒は完成しない。
やがて搾り終えた果汁が、大きな発酵樽へ移されていく。
親方は、一樹へ視線を向けた。
「酒井。」
「はい。」
「例のやり方だ。」
一樹は頷く。
前回、偶然の出来事から生まれた小さな気付き。
発酵中、樽の底をほんの少しだけ動かす。
あの一本だけが、香り豊かな酒になった。
「今回は一本だけじゃない。」
親方は静かに笑う。
「今日は全部、そのやり方でいく。」
一樹は驚いて顔を上げた。
「いいんですか。」
「もう試作じゃない。」
親方は力強く答える。
「職人が納得した。」
「だったら採り入れる。」
料理長も静かに頷いた。
「新しい酒は。」
「新しい挑戦からしか生まれん。」
一樹は思わず笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。」
親方は肩を叩いた。
「勘違いするな。」
「採用したのは、お前の知識じゃない。」
「酒が答えを出したからだ。」
その言葉に、一樹は深く頷いた。
「……はい。」
それから数週間。
静かな酒蔵で、白葡萄酒はゆっくりと時を重ねた。
誰も急かさない。
誰も焦らない。
酒は、人の都合では育たない。
待つこともまた、酒造りだった。
発酵を終えた樽が、ゆっくりと酒蔵の中央へ運ばれた。
親方は栓に手を掛ける。
「酒井。」
「はい。」
「お前も立ち会え。」
一樹は静かに樽の前へ立つ。
職人たちも仕事の手を止め、その様子を見守っていた。
「開けるぞ。」
コツン、と木槌が鳴る。
次の瞬間。
栓が抜けると同時に、華やかな香りが酒蔵いっぱいに広がった。
「……。」
誰も言葉を発しない。
果実の甘い香り。
だが甘さだけではない。
爽やかで、どこか涼しさを感じる香りが後からゆっくりと鼻を抜けていく。
料理長は静かに目を閉じ、その香りを確かめた。
「注いでくれ。」
親方が木杯へ酒を注ぐ。
淡い黄金色の液体が、朝の光を受けて静かに輝いた。
料理長は木杯を持ち上げる。
まず香りを確かめる。
そして一口。
ゆっくりと口に含み、目を閉じた。
誰も声を出さない。
酒蔵には木杯を置く小さな音だけが響いた。
「……どうですか。」
一樹が恐る恐る尋ねる。
料理長はすぐには答えなかった。
もう一口飲む。
そして、小さく息を吐いた。
「酒井。」
「はい。」
「魚を焼いてくれ。」
「え?」
「今ですか?」
「酒だけでは分からん。」
「料理と合わせて初めて、この酒の答えが出る。」
親方が笑う。
「そういう人だったな。」
料理長は真顔のまま頷いた。
しばらくして、香ばしく焼かれた白身魚が運ばれてきた。
料理長は一口食べる。
続いて白葡萄酒を口へ運ぶ。
ゆっくり噛みしめ、静かに飲み込む。
再び沈黙。
一樹は思わず拳を握る。
料理長は木杯を机へ置き、穏やかに笑った。
「……寄り添った。」
その一言だった。
「料理が前へ出る。」
「だが、酒は消えていない。」
「互いが互いを引き立てている。」
料理長は一樹を見た。
「赤蜜麦酒は、人が杯を交わすための酒だった。」
「この酒は違う。」
「料理を主役にし、その席を豊かにする酒だ。」
一樹は木杯を手に取り、自分でも一口飲んだ。
続けて白身魚を口へ運ぶ。
「……本当だ。」
赤蜜麦酒とはまったく違う。
自分を主張するのではなく、料理をそっと支えている。
それでも、酒としての存在感はしっかり残っていた。
親方も木杯を掲げ、小さく笑う。
「酒井。」
「やっとできたな。」
一樹は嬉しそうに頷いた。
「はい。」
「みんなで造った酒です。」
料理長は静かに木杯を置く。
「名は決めてあるか。」
一樹は少し照れながら答えた。
「派手な名前は思いつかなくて。」
「白葡萄酒。」
料理長は満足そうに頷いた。
「それでいい。」
「酒は、旨ければ名は自然と広まる。」
その時、酒蔵の扉を叩く音が響いた。
文官が一礼する。
「料理長。」
「国王陛下よりお伝えします。」
「三日後、王宮晩餐会にて、その白葡萄酒を披露していただきたいとのことです。」
酒蔵にいた全員が顔を見合わせた。
料理長は静かに笑う。
「ようやく、本番だ。」
一樹は木杯の中で揺れる淡い黄金色を見つめ、小さく頷いた。
この一杯が、今度は王都で新たな縁を結ぶことになる。
そんな予感がしていた。
文官が退出すると、酒蔵には再び静けさが戻った。
職人たちは互いに顔を見合わせる。
「王宮晩餐会か……。」
「俺たちの酒が、王様の口に入るんだな。」
親方は腕を組みながら、小さく笑った。
「違う。」
「俺たちの酒じゃない。」
そう言って、一樹の肩を軽く叩く。
「みんなで造った酒だ。」
その言葉に、葡萄農家の老人も頷く。
「畑だけじゃ生まれなかった。」
「酒蔵だけでも生まれなかった。」
料理長は白葡萄酒を見つめながら静かに口を開く。
「料理も同じだ。」
「一人で完成する料理などない。」
「育てる者がいる。」
「運ぶ者がいる。」
「造る者がいる。」
「そのすべてが揃って、ようやく一皿になる。」
一樹は木杯を見つめ、自然と笑みを浮かべた。
「酒も同じですね。」
「一人じゃ、一杯も造れない。」
料理長は満足そうに頷く。
「ああ。」
「だから酒は、人をつなぐ。」
その一言が、一樹の胸に静かに残った。
酒そのものに、人を変える力はない。
けれど。
一つの畑で汗を流し。
一つの酒蔵で知恵を出し合い。
一つの食卓を囲めば、人は自然と言葉を交わす。
その積み重ねが、一杯の酒になる。
一樹は白葡萄酒の樽へそっと手を置いた。
「頼んだぞ。」
「次は、王宮だ。」
酒蔵の窓から差し込む夕日が、淡い黄金色の樽を静かに照らしていた。
次回 第19話「佳き縁に。」




