第17話 実りを待つ
白葡萄畑を訪れてから、三週間が過ぎた。
一樹は朝食を終えると、王城の庭を歩いていた。
空を見上げる。
「そろそろかな。」
あの日、実を減らした一区画の葡萄。
どんなふうに育っているのか気になって仕方がなかった。
「気になるか。」
後ろから料理長の声がする。
「もちろんです。」
「でも、まだ早いですよね。」
料理長は頷いた。
「ああ。」
「畑は人の都合では育たん。」
「待つしかない。」
一樹は苦笑した。
「酒って、待つことが多いですね。」
「そういうものだ。」
料理長は腕を組む。
「実が育つのを待つ。」
「発酵を待つ。」
「熟成を待つ。」
「急いで旨くなる酒はない。」
一樹は空を見上げ、小さく息を吐いた。
「待つのも仕事か。」
「そうだ。」
料理長は少しだけ口元を緩める。
「だが、待つだけではつまらん。」
「今日は酒蔵へ行くぞ。」
「酒蔵ですか?」
「王都の葡萄酒がどう造られているか。」
「まずは知れ。」
二人は王城を出て、王都の酒蔵へ向かった。
そこは村の酒蔵とはまるで違っていた。
高い天井。
何十という樽が整然と並び、空気には葡萄の甘い香りと発酵の香りが混ざり合っている。
「すごい……。」
一樹は思わず足を止めた。
「全部、葡萄酒ですか。」
「仕込みの時期だからな。」
料理長が答える。
「今が一番忙しい。」
奥では職人たちが樽を運び、温度を確かめ、帳面へ細かく記録を書き込んでいる。
一樹はその様子を興味深そうに眺めた。
「こんにちは。」
一人の職人が軽く頭を下げる。
「料理長から話は聞いてます。」
「赤蜜麦酒を造った方ですよね。」
「酒井一樹です。」
「今日は勉強させてもらいます。」
職人は笑った。
「見るだけなら、いくらでも。」
「ただ。」
「うちは口より手が先に動く酒蔵なんでね。」
「その方が好きです。」
一樹も笑い返した。
職人たちは黙々と仕事を続ける。
その姿は、どこか村の酒蔵の親方たちにも似ていた。
酒が違っても、酒造りに向き合う職人の姿勢は同じなのだと、一樹は少し嬉しくなった。
その時だった。
「おっと!」
一人の若い職人が、大きな樽を移動させようとして足を滑らせた。
ゴンッ!
鈍い音が酒蔵に響く。
樽が柱へぶつかり、大きく揺れた。
「しまった!」
若い職人の顔から血の気が引く。
酒蔵の空気が、一瞬で張り詰めた。
「大丈夫か!」
親方が駆け寄る。
幸い樽は割れていない。
酒も漏れていない。
若い職人は胸をなで下ろした。
「す、すみません……。」
親方は樽を丁寧に確かめる。
「割れてはいない。」
「……だが。」
「発酵中なんだぞ。」
親方は小さくため息をついた。
「余計な衝撃は与えたくなかった。」
一樹は揺れた樽を見つめる。
(発酵中だから……。)
(揺らしちゃ駄目なのか。)
そう思いながらも、その樽から目を離すことができなかった。
翌日。
一樹は料理長に呼ばれ、再び酒蔵を訪れていた。
「昨日の樽だ。」
料理長が顎で示す。
一樹は首をかしげる。
「何かあったんですか。」
親方が腕を組みながら答えた。
「朝の確認をしていたらな。」
「少し様子が違う。」
一樹は樽へ近づく。
親方が栓をわずかに開けると、甘い葡萄の香りがふわりと漂った。
「……あれ?」
一樹は思わず声を漏らす。
昨日嗅いだ香りより、どこか華やかに感じる。
「親方。」
「昨日と違いませんか。」
「お前もそう思うか。」
親方は別の樽も開けた。
「嗅ぎ比べてみろ。」
一樹は順番に香りを確かめる。
一つ目。
穏やかで落ち着いた香り。
二つ目。
昨日ぶつけた樽。
「……。」
「こっちの方が香りが立ってる。」
料理長も木杯へ少量注ぎ、香りを確かめる。
「確かに違う。」
親方は難しい顔をした。
「理由が分からん。」
「昨日ぶつけた以外は、何も変えていない。」
一樹は樽を見つめたまま考え込む。
(どうしてだ……。)
(ぶつけたから?)
(いや、そんなことで変わるのか。)
頭の片隅に、ぼんやりとした記憶が浮かぶ。
(そういえば……。)
(前の世界で見た番組だったかな。)
(ワイン造りの特集で……。)
(発酵中に何かを動かしていたような……。)
(棒で混ぜてた?)
(いや、混ぜるというより……。)
(底の方を動かしていたような……。)
(名前まで思い出せない……。)
記憶は霧がかかったように曖昧だった。
一樹は少し迷った末、口を開く。
「親方。」
「一つだけ、お願いしてもいいですか。」
「なんだ。」
「間違ってるかもしれません。」
「だから、本当に試しでいいんです。」
親方は黙って頷く。
「この樽みたいに強くじゃなくて。」
「ほんの少しだけ、中を動かしてみませんか。」
「……動かす?」
「はい。」
「理由は説明できません。」
「ただ、昨日の樽を見ていて、そんな気がしたんです。」
親方は料理長を見る。
料理長も静かに腕を組んだ。
「どうする。」
しばらく考え込んだ親方は、小さく息を吐く。
「一本だけだ。」
「失敗しても被害が少ない樽で試す。」
「それ以上はやらん。」
一樹はほっとしたように笑う。
「ありがとうございます。」
親方は苦笑する。
「礼は成功してから言え。」
「酒造りは、勘だけじゃ続かん。」
「だが……。」
「職人ってのは、気になったことを試してきたから今がある。」
そう言うと親方は一本の樽の前へ立ち、静かに道具を手に取った。
「さて。」
「酒がお前の勘に応えてくれるか。」
酒蔵にいた職人たちも、仕事の手を止め、その一本の樽へ視線を向けていた。
親方は長い柄のついた木の道具を手に取ると、ゆっくりと樽の中へ差し入れた。
「本当に、少しだけだぞ。」
「はい。」
一樹も固唾をのんで見守る。
木の道具が樽の底へ届く。
親方は力を入れず、底をなでるようにゆっくりと動かした。
一度。
二度。
それだけで道具を引き上げる。
「これで終わりだ。」
親方は栓を閉めた。
「さて。」
「何も変わらんかもしれん。」
「むしろ悪くなるかもしれん。」
料理長が静かに頷く。
「酒造りは、そういうものだ。」
一樹もそれ以上は何も言わなかった。
確証はない。
前の世界の曖昧な記憶に、賭けただけなのだから。
――それから五日後。
一樹は再び酒蔵を訪れていた。
酒蔵へ入るなり、親方が手招きをする。
「酒井。」
「こっちだ。」
一樹は足早に近づく。
「例の樽ですか。」
「ああ。」
親方は何も言わず、木杯を二つ並べた。
一つは普段どおりに仕込んだ葡萄酒。
もう一つは、あの日少しだけ樽の底を動かした葡萄酒。
「飲み比べてみろ。」
一樹はまず普段の葡萄酒を口に含む。
果実の甘みが広がり、後味はすっきりしている。
「美味しいですね。」
続いて、もう一方を口へ運ぶ。
「……あ。」
思わず声が漏れた。
香りがふわりと広がり、口当たりがどこかやわらかい。
果実の風味も、最初の一杯より自然に感じられる。
「違います。」
「何が違う。」
親方が尋ねる。
「うまく言えません。」
「でも……。」
「こっちの方が、葡萄の香りが前に出てきます。」
料理長も木杯を受け取り、ゆっくりと味を確かめる。
しばらく目を閉じていたが、やがて静かに頷いた。
「酒井の言うとおりだ。」
「香りも。」
「口当たりも。」
「こちらの方が丸い。」
親方は驚いたように木杯を見比べる。
「本当に変わった……。」
酒蔵の職人たちも順番に口へ運び、小さなどよめきが広がった。
「なんでだ……。」
「少し動かしただけだぞ。」
一樹は苦笑する。
「俺も理由までは分かりません。」
「たまたまかもしれません。」
「でも。」
「たまたまじゃないなら……。」
親方は木杯を見つめながら、小さく笑った。
「面白い。」
「酒は何十年造っていても、新しい発見がある。」
料理長は窓の外へ目を向ける。
白葡萄畑では、風に揺れる実が少しずつ色づき始めていた。
「葡萄も、もうすぐだ。」
「改良した畑。」
「改良した造り方。」
「両方がそろえば……。」
一樹も畑へ視線を向け、自然と笑みを浮かべた。
「今度こそ、本当に王都の料理に寄り添える一杯ができるかもしれませんね。」
料理長は静かに頷いた。
「ああ。」
「酒は、ようやく完成へ近づいた。」
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次回
第18話 白き一杯




