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酒で世界は救えますか? ~飲み過ぎで死んだ酒豪、異世界では乾杯ひとつで争いを終わらせます~  作者: 春野ケイ


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第11話 この一杯に、未来を。

 翌朝。


 酒蔵の扉を開けた一樹は、思わず足を止めた。


「……すごい。」


 酒蔵いっぱいに、優しく甘い香りが満ちていた。


 麦の香ばしさ。


 赤蜜の実の爽やかな甘酸っぱさ。


 森の蜂蜜がほのかに重なり合い、昨日よりもずっと深い香りになっている。


 酒好きの一樹には、それだけで胸が高鳴った。


「おはようございます。」


 後ろから村長が入ってくる。


 続いて樽職人の老人、女性騎士、村人たち、そして族長たちオークも酒蔵へ集まってきた。


 誰も大きな声では話さない。


 皆、木桶を見つめている。


 この一杯のために過ごした数日が、それぞれの胸によみがえっていた。


 樽職人の老人は木桶へ近づき、静かに蓋へ手を掛ける。


「酒は最後まで気を抜くな。」


 その一言に、酒蔵の空気が張り詰めた。


 老人はゆっくりと蓋を持ち上げる。


 ふわり、と湯気のように香りが立ちのぼる。


 一樹は思わず目を閉じた。


「……いい香り。」


 誰かが小さく息をのむ。


 木桶の中では、淡い琥珀色の酒が朝日を受けて静かに揺れていた。


 老人は柄杓を手に取り、少量を木杯へ注ぐ。


 酒蔵には柄杓から酒が流れる音だけが響いた。


 その木杯を見つめる全員の視線が、老人へ集まる。


「親方……。」


 村の若者が思わず呟く。


 老人は何も答えない。


 木杯を鼻へ近づけ、ゆっくり香りを確かめる。


 そして、小さく頷いた。


「……よし。」


 一口だけ口へ含む。


 酒蔵が静まり返る。


 誰も動かない。


 誰も息をしない。


 老人は目を閉じたまま、ゆっくりと酒を味わう。


 長い沈黙のあと、静かに目を開いた。


 その目尻には、小さく涙が浮かんでいた。


「……うまい。」


 その一言だけだった。


 けれど、その一言に込められた想いは、酒蔵中へ広がっていく。


 一樹は思わず尋ねる。


「どうですか?」


 老人は木杯を見つめながら、小さく笑った。


「こんな酒は、初めてじゃ。」


 村人たちが顔を見合わせる。


「昔、この村で造っとった酒とも違う。」


「オークの果実酒とも違う。」


 族長も静かに頷いた。


「我らの酒ではない。」


 老人は一樹を見る。


「じゃが、どちらもちゃんと生きとる。」


「麦も。」


「赤蜜の実も。」


「互いの良さを消し合うことなく、一つの酒になっとる。」


 その言葉を聞いた一樹の肩から、ようやく力が抜けた。


「……よかった。」


 心の底から、それしか言えなかった。


 老人は木杯を村長へ差し出す。


「次は、お前さんじゃ。」


 村長は両手で木杯を受け取り、静かに一口飲む。


 少し驚いたように目を見開き、ゆっくり笑った。


「懐かしいようで……。」


「懐かしくない。」


「不思議な酒ですね。」


 そして、木杯を族長へ差し出す。


「どうぞ。」


 族長は一瞬だけ迷った。


 だが、すぐに木杯を受け取り、一口飲む。


 静かに目を閉じる。


 しばらく何も言わない。


 皆が族長を見つめる中、族長はゆっくりと口を開いた。


「……これは。」


「人間の酒ではない。」


 酒蔵が静まり返る。


「オークの酒でもない。」


 もう一口飲み、穏やかに笑った。


「我らが、共に造った酒だ。」


族長の言葉に、酒蔵の空気がふっと緩んだ。


 誰からともなく笑みがこぼれる。


 一樹は木杯を受け取り、琥珀色の酒を見つめた。


 木桶の中で静かに育った一杯。


 村人の麦。


 オークの赤蜜の実。


 森の蜂蜜。


 井戸の水。


 そして、この数日間で積み重ねてきた、みんなの時間。


「いただきます。」


 一樹は木杯を口元へ運んだ。


 一口。


 ゆっくりと酒を含む。


 最初に広がったのは、麦の香ばしさ。


 そのあとを追うように赤蜜の実の爽やかな甘酸っぱさが広がり、最後に蜂蜜の優しい甘みが口の中を包み込む。


 飲み込んだあとには、心地よい余韻だけが残った。


 一樹は目を閉じ、小さく息を吐く。


「……うまい。」


 その一言に、酒蔵のあちこちから笑い声が上がる。


「それだけか!」


 女性騎士が思わず笑う。


「もっと気の利いたことを言うかと思いました。」


「無理。」


 一樹は照れくさそうに頭をかく。


「本当にうまい時って、『うまい』しか出てこない。」


 樽職人の老人が大きく笑った。


「それでええ。」


「酒は難しい言葉で飲むもんじゃない。」


「うまいと思えたら、それが一番じゃ。」


 村人たちにも木杯が配られ、オークたちにも次々と酒が注がれていく。


 誰もが緊張した面持ちで口をつける。


 そして。


「うまい……。」


「これは初めての味だ。」


「赤蜜の香りがこんなに合うなんて。」


「もう一杯飲みたい!」


 酒蔵は、あっという間に笑顔で満たされた。


 村長は酒を見つめながら、静かに口を開く。


「名前を付けませんか。」


 その一言に、一樹が顔を上げる。


「名前?」


「ええ。」


「この酒は、この村にとって特別な酒です。」


 樽職人の老人も頷く。


「酒には名前がいる。」


「そうすれば、人はその酒を忘れん。」


 皆が考え込む。


 しばらく沈黙が続いたあと、村長が木杯を見つめながら微笑んだ。


「赤蜜の実を使った麦酒……。」


 一樹も頷く。


「そのままだけど。」


「赤蜜麦酒。」 (あかみつばくしゅ)


 酒蔵が静まり返る。


 族長はゆっくりとその名を口にした。


「赤蜜……麦酒。」


 一度頷く。


「分かりやすい。」


「我らの赤蜜も、この村の麦も、どちらも入っている。」


 女性騎士も笑顔を見せる。


「覚えやすくて、いい名前ですね。」


 樽職人の老人は満足そうに木杯を掲げた。


「よし。」


「今日から、この酒は『赤蜜麦酒』じゃ。」


 酒蔵の中に、大きな拍手が響いた。


 人間が喜び。


 オークも笑う。


 その酒は、人間のものでも、オークのものでもない。


 この村で生まれた、新しい一杯だった。


酒蔵の笑い声が少し落ち着いた頃だった。


 一樹は木桶の中を覗き込み、ふと首をかしげた。


「ねぇ。」


「どうしました?」


 村長が近づいてくる。


 一樹は木桶の底を指差した。


「これって、どうするの?」


 酒を汲んだあと、木桶の底には麦や赤蜜の実の搾りかすがたっぷり残っていた。


 樽職人の老人が覗き込む。


「ああ、それか。」


「もう役目は終わりじゃ。」


「家畜に食わせるか、捨てる。」


「捨てる?」


 一樹は思わず聞き返した。


「全部ですか?」


「全部じゃ。」


 族長も当然のように頷く。


「我らも同じだ。」


「果実酒を造った後は森へ返す。」


 一樹は木桶の中をじっと見つめる。


 麦。


 赤蜜の実。


 蜂蜜。


 どれも、ついさっきまで酒の材料だった。


「……もったいないな。」


 その一言に、全員が首をかしげる。


「もったいない?」


「うん。」


 一樹は少し考え込んでから笑った。


「ちょっと試してもいい?」


 村長と樽職人は顔を見合わせる。


「構いませんが……。」


「失敗しても怒らないでくださいね。」


 一樹は笑いながら木桶の底に残った搾りかすを木皿へ移した。


「小麦粉はありますか?」


「あるぞ。」


「少しだけ貸してください。」


 村人が小麦粉を持ってくる。


 一樹は搾りかすへ少量の小麦粉を混ぜ、水を少し加えながら手でこね始めた。


「そんな物、食えるのか?」


 若いオークが不思議そうに見つめる。


「分からない。」


 一樹は正直に答えた。


「でも、うまくいく気がする。」


 平たく丸めた生地を鉄板へ乗せる。


 薪の火でじっくり焼くと、香ばしい匂いが酒蔵いっぱいへ広がっていく。


「……いい匂い。」


 女性騎士のお腹が、小さく鳴った。


「あ……。」


 顔を赤くする女性騎士に、一樹は思わず笑ってしまう。


「焼けたかな。」


 こんがりと焼き色が付いた生地を半分に割る。


 中からは赤蜜の実の甘い香りがふわりと立ち上った。


 一樹は一口食べる。


「……うまい。」


 また、その一言だった。


「また『うまい』だけか!」


 女性騎士が笑う。


「だって、本当にうまいんだもん。」


 今度は樽職人が口へ運ぶ。


 ゆっくり噛みしめる。


「これは……。」


 もう一口。


 そして大きく頷いた。


「酒を造った後に、まだこんな楽しみが残っとったとは。」


 村長も驚いた表情を浮かべる。


「腹持ちも良さそうですね。」


 族長も食べて目を丸くする。


「赤蜜の甘みが残っている。」


「子どもたちも喜ぶ。」


 一樹は嬉しそうに笑った。


「酒を造って終わりじゃない。」


「最後まで、おいしく食べよう。」


 村長は焼き上がった生地を見つめ、静かに呟く。


「この食べ物にも、名前が必要ですね。」


 一樹は少し考え、焼きたてを掲げた。


「赤蜜麦餅(あかみつむぎもち)。」


「赤蜜麦酒から生まれた、一番最初の料理。」


 樽職人は嬉しそうに笑う。


「酒もできる。」


「飯もできる。」


 村長は焼きたての赤蜜麦餅を見つめながら、小さく息を吐いた。


「……これなら。」


「食料が足りない冬でも、村のみんなが笑って食卓を囲めるかもしれません。」


 その言葉に、酒蔵は再び静かになった。


 この酒は、人をつないだ。


 そして今、その酒から生まれた新しい料理が、この村の未来まで支えようとしていた。


酒蔵の中には、焼きたての赤蜜麦餅の香ばしい香りが広がっていた。


 誰もが自然と笑顔になっている。


 村長は手にした赤蜜麦餅を見つめながら、ゆっくりと言った。


「酒が生まれ。」


「食べ物も生まれた。」


「この村に、新しい宝が二つも増えましたね。」


 樽職人の老人も嬉しそうに頷く。


「酒を造って七十年近くになる。」


「じゃが、まだ知らんことがあった。」


「長生きするもんじゃな。」


 族長は焼きたての赤蜜麦餅をもう一口食べる。


「これなら子どもたちも喜ぶ。」


「森へ狩りに出られぬ日でも、腹を満たせる。」


 その言葉に、一樹は静かに笑った。


「酒って、不思議だね。」


「飲むだけじゃない。」


「人も料理も、新しいものを生み出してくれる。」


 女性騎士が木杯を見つめる。


「最初は信じられませんでした。」


「酒で争いが止まるなんて。」


 一樹は首を横に振る。


「止めたのは酒じゃないよ。」


「みんなだ。」


「酒は、そのきっかけをくれただけ。」


 村長は木杯を手に取る。


「そのきっかけが、この村を救ってくれました。」


 族長も静かに杯を持ち上げる。


「我らも礼を言おう。」


「酒井一樹。」


「お前がいなければ、この酒も、この料理も生まれなかった。」


 一樹は少し照れながら笑う。


「俺一人じゃ無理でした。」


「村のみんなが麦を育てて。」


「オークのみんなが赤蜜の実を集めて。」


「親方が酒を造ってくれて。」


「みんなで作ったから、ここまで来られた。」


 樽職人の老人が木杯を掲げる。


「ならば。」


「祝いの席といこう。」


 村人たちも。


 オークたちも。


 それぞれ木杯を手に取る。


 酒蔵の中は静まり返っていた。


 一樹はゆっくりと周りを見渡す。


 この村へ来た日。


 武器を向け合っていた人間とオーク。


 あの日には想像もできなかった景色が、今、目の前にある。


樽職人の老人が、ゆっくりと木杯を持ち上げた。


「さて。」


「今日は祝いの日じゃ。」


 村人たちも木杯を手に取る。


 オークたちも、それぞれの杯を静かに掲げた。


 一樹はみんなの顔を見渡す。


 村人。


 オーク。


 樽職人。


 村長。


 女性騎士。


 この酒蔵で過ごした日々が、一人ひとりの表情に刻まれていた。


 一樹は自然と笑みを浮かべる。


「みんな。」


「今日は盟約の日じゃない。」


「人間とオークが、一緒に新しい酒を造った日だ。」


 少し間を置き、木杯を高く掲げる。


「この村の未来に。」


「――乾杯!」


「乾杯!」


 村人たちが一斉に声を上げる。


 木杯が触れ合い、心地よい音が酒蔵に響いた。


 しかし、その輪の中でオークたちは静かに杯を持ったまま動かなかった。


 一樹は不思議そうに族長を見る。


「どうしたの?」


 族長は穏やかに微笑み、胸の高さまで杯を掲げた。


「人間は『乾杯』と言う。」


「だが、我らには我らの祝いの言葉がある。」


 酒蔵が静まり返る。


 族長は仲間たちの顔を見渡し、ゆっくりと口を開いた。


「――ガル・ドゥール。」


 オークたちは胸の高さで杯を掲げる。


「ガル・ドゥール!」


 低く力強い声が酒蔵に響いた。


 一樹はその響きに聞き入り、静かに尋ねる。


「どういう意味?」


 族長は優しく笑う。


「『明日も共に生きよう』。」


「今日を生き抜いた仲間へ。」


「また同じ食卓を囲もうという願いを込めた言葉だ。」


 一樹はその言葉を何度も心の中で繰り返した。


「……いい言葉だ。」


 そして、木杯を胸の高さまで下ろす。


 族長と同じように。


「だったら。」


「二杯目は、その言葉で乾杯しよう。」


 村人たちが少し驚く。


 女性騎士が一番に微笑み、杯を胸の高さまで下げた。


「私も。」


 村長も静かに続く。


「もちろんです。」


 樽職人の老人は嬉しそうに目を細めた。


「そういうことなら、わしもじゃ。」


 一樹は族長を見て、大きく頷く。


「みんな。」


「せーの。」


「――ガル・ドゥール!」


 村人たちも少したどたどしく続く。


「ガル・ドゥール!」


 オークたちは一瞬驚いた表情を見せる。


 そして次の瞬間、大きな笑い声が酒蔵いっぱいに響いた。


 人間も笑う。


 オークも笑う。


 木杯が重なり合う音は、さっきよりもずっと温かく聞こえた。


 その日、この酒蔵で生まれたのは、新しい酒だけではない。


 人間とオークが互いの文化を尊重し、同じ未来を願って杯を交わす、新しい祝いの形だった。


一樹は静かに木杯を見つめた。


 この世界へ来た日。


 人間とオークは武器を向け合っていた。


 酒蔵は閉ざされ。


 村には笑顔がなかった。


 けれど今。


 手にあるのは剣ではなく杯。


 酒蔵には笑い声が響き、人間とオークが同じ食卓を囲んでいる。


「……よかった。」


 その一言が、一樹の口から自然とこぼれた。


 酒で世界は救えない。


 そんなことは、一樹も分かっている。


 けれど。


 一杯の酒が、人と人を向き合わせることはできる。


 その一歩が、未来を変えることだってある。


 目の前には、その証があった。


 村長が笑っている。


 族長が笑っている。


 子どもたちが赤蜜麦餅を頬張りながら走り回っている。


 その光景を見て、一樹も自然と笑みを浮かべた。


 こうして、王国の片隅にある小さな村で、一つの新しい酒が生まれた。


 その名は――赤蜜麦酒(あかみつばくしゅ)。


 人間の麦と。


 オークの赤蜜の実。


 異なる文化が一つになって生まれた、世界で初めての酒。


 そして、この日。


 人間はオークの祝いの言葉を知り、オークは人間の「乾杯」を受け入れた。


 互いの文化を尊重し、同じ未来を願って杯を交わす。


 その新しい一歩は、この小さな村から始まった。


 誰もまだ知らない。


 この一杯が、やがて王国中へ、そして世界中へ広がっていくことを。


 だが、それはもう少し先の話。


 今はただ――。


 一つの村に、笑顔が戻ったことを祝おう。


⸻


第1章 最初の一杯 完


⸻


次回


第2章 王都に届いた一杯


━━━━━━━━━━

酒図鑑更新

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赤蜜麦酒(あかみつばくしゅ)


分類:麦酒


原料

・村で育てた麦

・オークの赤蜜の実

・森の蜂蜜

・村の井戸水


味わい

麦の香ばしさに、赤蜜の実の爽やかな甘酸っぱさと蜂蜜のやさしい甘みが重なった、飲みやすい麦酒。


誕生

人間とオークが世界で初めて共同で醸造した酒。

異なる文化が一つになって生まれた、平和の象徴となる一杯。


副産物

・赤蜜麦餅

(酒造りで残った搾りかすから作られた保存食。食料不足の解決にもつながった。)


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乾杯文化更新

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人間

「乾杯!」


祝いの席で杯を高く掲げ、喜びや感謝を分かち合う言葉。


オーク

「ガル・ドゥール」


意味は――「明日も共に生きよう。」


今日を生き抜いた仲間と、また同じ食卓を囲めることを願って交わす、オークに古くから伝わる祝いの言葉。


この日、人間も「ガル・ドゥール」で杯を交わし、オークも人間の「乾杯」を受け入れた。


二つの文化は、この村で初めて一つになった。


 

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