第3話 名前の出ない仕事
フライパンを温めて、にんにくを薄く切って、オリーブオイルで弱火にかけた。油が温まるにつれて、にんにくの香りが、ゆっくりと立ちのぼってくる。焦がさない。きつね色になる手前で、香りだけを油に移す。
そこへ、砂肝を入れる。塩を、ひとつまみ。
じゅう、と音が立った。
にんにくの香りが、油に溶けて立ちのぼる。リビングまで届いたのだろう、遠野さんがこちらを見たのが、背中で分かった。小麦も、定位置のベッドから鼻先を上げて、くんくんと空気を嗅いでいる。
砂肝は、焼きすぎない。表面に焼き色がついて、中がほんの少し赤みを残すくらい。コリッとした歯ごたえは、火を入れすぎると逃げてしまう。最後に、黒胡椒を挽いて、香りづけに醤油をほんの数滴。鍋肌で焦がすと、ぱっと香ばしさが立つ。
その瞬間の匂いが、いちばん食欲をそそる。焦げた醤油と、にんにくと、肉の脂。それが湯気に乗って、ふわりと広がる。香ばしさは、糖とたんぱく質が高い温度で出会ったときに生まれる。理屈はそうでも、台所に立つ人間がやっているのは、ただ、誰かに『美味しそう』と思ってほしい、それだけのことだった。
皿に盛って、ダイニングへ運んだ。湯気の立つ砂肝を、遠野さんの前に置く。
遠野さんは、串の砂肝を箸でつまんで、口に入れた。
噛む。
「……っ」
目が、見開かれた。
「……何ですか、これ」
「砂肝です」
「いや、さっきのと、同じ食材のはずなんですけど」
遠野さんは、もう一つ口に運んだ。コリ、と小気味いい音が、こちらまで聞こえた。にんにくの香り、塩の効き、香ばしい焦げ。冷めた串とは別物だ。
「……美味しい。すごく」
「お酒、進みますよ」
遠野さんはハイボールを一口飲んで、それから、ふっと笑った。けれど、その笑いは、すぐに消えた。
「……勝ったんですよ、コンペ」
砂肝を見つめたまま、遠野さんが言った。
「来月、世に出ます。たぶん、けっこう大きく。駅とか、電車の中とか、いろんなところに」
「楽しみですね」
「でも、そこに私の名前は、出ないんです」
遠野さんが、串をそっと皿に置いた。
「出るのは、クライアントの名前。広告ですから。当たり前なんです。私たちは裏方で。どれだけヒットしても、世間が褒めるのは、商品を出した会社で。誰も、これを誰が作ったかなんて、考えもしない」
「……」
「分かってるんです。最初から。そういう仕事だって。でも今日、打ち上げで、クライアントの担当が言ったんです。『いやー、うちのセンスもまだまだ捨てたもんじゃないですね』って」
遠野さんは、ハイボールを一口飲んだ。喉が、こくりと動く。
「前にね、別の案件で。私が出した色味を、『なんか古い』って、一言で全部、上書きされたことがあって。理由は、ない。ただ、なんとなく、らしいんです。それで、自分の感覚が、もう古いのかなって。あと何年、このセンスは、もつんだろうって」
「……」
「若い子も、入ってくる。新しいツールも、どんどん出てくる。私、ずっと、追いかけられてる気がして。後ろから。立ち止まったら、終わりだぞって」
遠野さんの指が、ハイボールの缶を、きゅっと握った。
「私が、半年かけて、何十案も出して、何度も全否定されて、やっと残った一案なのに。『うちのセンス』って。私、笑って、頷いてました。『さすがです』って」
声が、少しかすれた。
「私、何のために、走ってきたんだろう」
俺は、向かいの椅子に腰を下ろした。しばらく、何も言わなかった。
それから、ぽつりと言った。
「見てる人は、見てますよ」
遠野さんが、顔を上げた。
「世に出る時に名前が出るかどうかと、誰かが見てるかどうかは、別の話です。名前の出ない仕事ほど、本当はいちばん難しい。それを、ちゃんと形にして残す人がいる。そういう人を、見てる人は、ちゃんと見てます」
「……でも、誰も」
「俺は、遠野さんの作るもの、好きですよ」
遠野さんの動きが、止まった。
「いや、広告の話じゃなくて。すみません、俺は遠野さんの仕事を見たことはないんですけど」
俺は少し、言い直した。
「先週、リビングの黒板。あれ、遠野さんが書き直してくれたでしょう。献立の字。チョークの色を変えて、線を引いて、誰が何を頼んだか、ぱっと見て分かるようにしてくれて」
遠野さんが、目を瞬かせた。
「……あんな、落書きみたいなの」
「あれを見て、まひるさんが『見やすい』って喜んでました。ゆめちゃんは写真を撮ってましたよ。誰に頼まれたわけでもないのに、人が見やすいように、勝手に手が動く。あれが、遠野さんの仕事なんでしょう」
「……」
「君の作るもの、俺は好きですよ」
遠野さんが、うつむいた。セミロングの髪が、横顔を隠す。けれど、肩が、小さく揺れているのが分かった。
「……ずるいですよ、ほんとに」
声が、湿っていた。
俺は何も言わずに、ハイボールの缶を、もう一本開けて、遠野さんの前に置いた。自分のグラスにも、同じものを注ぐ。張り合うつもりはない。ただ、同じ速さで、隣で飲む。それだけだ。
遠野さんは、酒が強い。普通の人なら、とっくに呂律が回らなくなっている量を、顔色一つ変えずに飲む。会社の飲み会でも、たぶん、最後まで誰かを介抱する側なのだろう。甘えることに、慣れていない人だ。
だから俺は、急かさない。先に酔ってみせもしない。ただ、隣で、同じものを、同じだけ飲む。それが、この人の鎧を、いちばん静かに下ろさせる飲み方だと、長い経験で知っていた。
遠野さんは、しばらくして顔を上げると、目元を指でぬぐって、笑った。
「管理人さん、この出汁……いえ、この砂肝の味付け。家庭の味じゃないですよね」
「そうですか?」
「塩を入れるタイミングとか。焼き加減とか。なんか、こう、お店の人みたいな」
俺は、砂肝を一つ、自分の口に運んだ。
「昔、ちょっとだけ、料理の仕事をしてたことがありまして」
「ちょっと?」
「ええ、ちょっと」
「ちょっと、で、この味は出ないと思うんですけど」
遠野さんが、目を細めた。仕事柄か、人の言葉のうしろにあるものを、よく見ている。
「砂肝の筋、削ぐの、慣れてました。塩を入れるタイミングも、迷いがなかった。あれ、結構な年数やってないと、できないやつですよ」
「そうですかね。ゴミ出しと同じで、毎日やってると、手が覚えるだけですよ」
俺がそう言うと、遠野さんは、しばらくこちらをじっと見た。何か言いかけて、けれど、言わなかった。
代わりに、砂肝を一つ食べて、ハイボールを飲んで、ぽつりとこぼした。
「……毎日やってきたことって、どこに残るんですかね」
俺は、少し考えて、答えた。
「あなたの中に、残ってますよ。それは、誰にも消せない」
遠野さんは、何も言わなかった。ただ、缶を両手で包んだまま、しばらく、天井のほうを見ていた。目のふちが、光っていた。
小麦が、ダイニングの足元に来て、遠野さんの膝に、そっと顎を載せた。
皿には、砂肝がひと切れだけ残っていた。冷めかけても、にんにくの香りは、まだ湯気の名残とともに、ふたりのあいだに漂っていた。遠野さんが、それを見つめる目に、涙とは別の、何かを見定めるような色が、ふと差したのを、俺は気づかないふりで見ていた。
この人が、俺の「ちょっと」の中身を、いつか本気で聞きにくる夜が来るとは──このときの俺は、まだ知らないでいた。
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