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第2話 芯まで、染みてます

「……大根」


「三時間ほど、煮てます。芯まで染みてると思いますよ」


遠野さんは箸を取った。その手が、少しだけ止まる。今日一日の何かが、まだ指先に残っているみたいに。


それから、大根を割った。箸が、すっと沈む。力もいらない。半分に割れた断面から、じゅわっと、含んでいた出汁があふれた。湯気が、ふわりと立つ。


一口、口に運ぶ。


遠野さんが、目を閉じた。


噛むという感じではなかった。舌の上で、大根が出汁ごと、ほどけていく。そういう食べ方だった。


「……あ」


小さな声が漏れた。


「……なんで」


遠野さんの声が、揺れていた。


「なんで、こんな……今日、何も、食べてなくて。お昼も、抜いて。ずっと、もういい、何もいらないって、思ってたのに」


俺は向かいに腰を下ろした。何も言わずに、ただ座っていた。


「クライアントに……『なんか違う』って。三回目です。三回目の、なんか違う。どこがって聞いても、答えはなくて。でも月曜の朝には、新しい案を出せって」


箸を持つ手が、震えていた。


「私の作ったもの、誰も、いいって言わないんです。ずっと。一度も」


遠野さんは、もう一口、大根を食べた。今度は、さっきより少しだけ、急いた食べ方だった。空腹が、ようやく自分の体に追いついてきたみたいに。


「徹夜明けで、頭がぼうっとしてて。電車で、何度も乗り過ごしそうになって。最寄り駅から、歩いて帰る道で、もう、自分でもよく分かんなくなって。何のために、こんなに頑張ってるんだっけ、って」


はんぺんを箸で割る。ふわりと、湯気が立った。


「でも、玄関、開けたら。小麦がいて。いい匂いがして」


声が、少しだけ、ほどけた。


俺は徳利を持ち上げて、おちょこに酒を注いだ。熱燗の湯気が、ふたりのあいだに立つ。


「飲んでください。今夜は、もう何も考えなくていいですよ」


遠野さんは、おちょこを両手で包んだ。一口、含む。


ほう、と息が漏れた。肩から、すとんと、力が抜けたのが分かった。


「……あったかい」


「ええ」


「管理人さんのおでん……ずるいです。こんな、弱ってる時に」


遠野さんが、初めて、ほんの少しだけ笑った。


それから、また大根を一口。牛すじを一口。半熟の玉子を、出汁ごと崩して。とろりとした黄身が、汁の中に溶けていく。それを掬って、口に運ぶ。空っぽだった胃に、温かいものが落ちていくたび、遠野さんの輪郭が、すこしずつ緩んでいくのが見えた。


「……牛すじ、とろとろ」


「三回、下茹でしてあるんです。臭みを抜くと、こうなります」


「手間、かかってる」


「金曜は、時間がありますから」


遠野さんが、ふ、と息で笑った。


「金曜の夜に、誰かのために、おでんを三時間煮てる人なんて。世界中探しても、管理人さんくらいですよ」


熱燗を、もう一杯。


俺はそのあいだ、ただ、たまに酒を注ぎ足した。何も聞かず、何も励まさず。


遠野さんは、おでんを半分ほど食べたところで、箸を置いた。おちょこを両手で持ったまま、ふと、こぼすように言った。


「……管理人さんのご飯がないと、生きていけなくなりそう」


言ってから、自分の言葉に気づいたみたいに、遠野さんの頬がわずかに動いた。


「あ、いや、今のは、その」


慌てて、残りの酒を飲み干す。耳のあたりが、酒のせいだけではない色に染まっていた。


「……お酒のせいです。忘れてください」


「はい」


俺は徳利を傾けて、また注いだ。


「おかわり、ありますよ。大根も、まだ鍋に」


遠野さんは、湯気の向こうで、もう一度、小さく笑った。


***


その夜の遠野とおのさんは、玄関で倒れ込まなかった。


代わりに、妙にしゃんとした足取りでリビングに入ってきて、ソファにきちんと座った。背筋が伸びている。それが、かえって心配だった。


「お帰りなさい。今日は早いですね」


「ええ。打ち上げ、だったので」


遠野さんは、革トートをそっと足元に置いた。手にしたコンビニの袋から、缶のハイボールと、つまみのパックを取り出す。


「コンペ、勝ったんです。私の担当した案件」


「それは、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


遠野さんは、缶のプルタブを開けた。ぷしゅ、と音がして、一口飲む。


「半年、かけました。徹夜も何度も。やっと、通ったんです」


言葉とは裏腹に、声に熱がなかった。


俺はキッチンに戻りかけて、足を止めた。リビングの奥、ダイニングの椅子に座る遠野さんの横顔が、蛍光灯の下で、ひどく疲れて見えた。勝った人の顔ではなかった。


つまみのパックには、砂肝すなぎもが入っていた。コンビニの、串に刺さったやつだ。遠野さんは、それを一本、口に運ぶ。冷めて、固くなっているのが、噛む顎の動きで分かった。


「……あの」


俺は声をかけた。


「その砂肝、よかったら、温め直しましょうか。家に、いいのがありますよ」


遠野さんが顔を上げた。


「いえ、これで――」


「もう一杯、付き合いますから」


遠野さんが、少し、黙った。それから、缶を持ち上げて、頷いた。


「……お願いします」


俺はキッチンに立った。冷蔵庫から、生の砂肝を出す。今朝、肉屋に寄ったとき、いいのが入っていたのだ。白い筋を包丁で削いで、半分に開く。コリコリした食感は、この下処理で決まる。


砂肝は、ほとんどが筋肉でできている。脂が少なくて、たんぱく質が多い。だから、酒のつまみにちょうどいい。コリコリした食感が、噛むほどに後を引く。それを生かすも殺すも、火加減ひとつだ。


箸で割ると、じゅわっと出汁があふれる大根。「なんで、こんな……もういらないって思ってたのに」――張り詰めていた人が、熱燗ひと口で肩の力を抜く夜に、ほろりときたら【泣ける】を! 「ご飯がないと生きていけなくなりそう」の続きは、ブックマークで一緒に。

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