表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/8

第1話 金曜日の、おでん

女性専用シェアハウス『常夜灯(じょうやとう)』の夜は、更けるほど静かになる。俺はこの家に住み込んで、賄いと掃除をやっている管理人だ。金曜の今夜も、住人の誰かが帰ってくるのを、台所で待っていた。


最初に動いたのは、小麦(こむぎ)の耳だった。


リビングのソファで丸くなっていたのが、ぴくりと顔を上げる。玄関のほうへ鼻を向けて、低く「くぅん」と鳴いた。


俺はキッチンの火を弱めて、手を拭いた。時計は午前零時を回っている。


がちゃ、と玄関の鍵が開いた。


「……ただいま」


声に張りがない。遠野(とおの)さんだ。靴を脱ぐというより、足から振り落とすような音がして、続いて、何か重たいものが床に落ちる音。革トートだ。


廊下に出ると、遠野さんがそこにいた。スーツのまま、壁に肩を預けている。きっちり結っていたはずの髪は半分ほどけて、頬にかかっていた。手にしたノートPCの鞄が、いまにも指から滑り落ちそうだった。


「お帰りなさい」


俺が言うと、遠野さんは目だけをこちらに向けた。


「すみません……こんな時間に、音を立てて」


「金曜ですから。こんな時間まで、お疲れさまでした」


俺は廊下に置かれたトートを拾い上げた。ずしりと来る。中でノートPCと資料の束が、れんがみたいに固まっているのが分かった。これを肩にかけて、終電に揺られて帰ってきたのか。


「持ちますよ」


「あ、いえ、自分で――」


遠野さんが手を伸ばしかけて、けれどその腕が、途中で力を失った。差し出した手が、ゆっくり下りていく。


「……お願いします」


ぽつりと言って、遠野さんは廊下を歩きだした。まっすぐ歩こうとして、わずかに壁伝いになっている。リビングに入るなり、ソファの手前のラグに、崩れるように膝をついた。


そのまま、ぱたりと横になる。


小麦が心配そうに近づいて、遠野さんの頬を一度だけ、ふんと嗅いだ。


「……小麦、いい子。あったかい」


遠野さんが、犬の金色の被毛に額を埋めた。それきり、動かなくなった。


家での遠野さんは、いつもこうだ。会社では一分の隙もない人なのだと、いつか(るい)さんが言っていた。チーフで、後輩を何人も束ねていて、目つきが鋭くて、近寄りがたいくらいだと。


その人が、いま、犬を枕にして玄関のほうに足を投げ出している。


ジャケットの肩には、外の冷たい空気の匂いがまだ残っていた。靴下の片方が、半分脱げかけている。デスクで何時間も同じ姿勢でいた人の、固まった背中の線が、横たわってもまだ抜けきっていなかった。


リビングの黒板に目をやった。今朝、遠野さんが書いていったチョークの文字がある。


『今日、夕飯いりません。遅くなります。遠野』


几帳面な、角の立った字だった。きっと、本当に食べる時間なんてないと思って、書いていったのだろう。


それでも、人は、夜中に腹が減る。


俺は何も言わずにキッチンへ戻った。鍋の蓋を取ると、湯気がふわりと顔に当たった。


夕方から、ことこと炊いていたおでんだった。今日は金曜だから、誰か一人くらい、まともに食べられずに帰ってくる気がしていた。理由はない。ただ、長くこの仕事をしていると、なんとなく分かる夜がある。


大根は、三時間以上煮ている。下茹では、米のとぎ汁でやった。そうすると、大根の苦みが抜けて、出汁の甘みだけが染みていく。皮を厚めに剥いて、面取りをして、十字に隠し包丁を入れる。そのひと手間で、染みていく速さがまるで違う。


竹串を刺すと、すうっと、抵抗なく芯まで通った。飴色の出汁が、断面のひとつひとつの繊維まで染みているのが、見なくても分かる。昆布と(かつお)の出汁に、ほんの少しだけ薄口醤油。色を濃くしすぎないのは、大根の白を残したいからだ。


おでんは、関東と関西で、味が違うらしい。濃口の鰹か、薄口の昆布か。けれど俺は、どちらでもない、その家にいる人の顔を思い浮かべながら、毎回、少しずつ加減を変える。今日の出汁は、疲れて帰ってくる人のための、優しい味にした。塩気は控えめに。そのぶん、旨味で満たすように。


玉子(たまご)は半分に割れる手前まで火を入れて、黄身に出汁を吸わせた。はんぺんは、最後にさっと温めただけ。煮すぎると、ふくらみが消えてしまう。


それと、牛すじ。これも下茹でを三度繰り返して、臭みを抜いてある。


小鉢に取り分けて、お盆に載せた。それから、徳利(とくり)に酒を注ぐ。


遠野さんは、いける口だ。ザルと言っていい。けれど今夜は、冷やではなく、熱燗(あつかん)にした。冷たいものは、いまの体には染み込まない。温度の高い汁物や酒は、旨味も、人をほどく力も強い。疲れた夜には、ぬるすぎず熱すぎず、肌に近いくらいの温度がいちばん優しい。


俺は鍋に湯を張って、徳利をそっと沈めた。指で温度をはかる。これくらい。


お盆を持ってリビングへ運ぶと、遠野さんはまだ小麦の腹に顔を埋めていた。


「遠野さん」


返事はない。眠ってしまったのかと思ったが、肩がかすかに上下している。


「無理に起きなくていいですよ。でも、これだけ、置いておきますね」


ローテーブルに、おでんの小鉢と、徳利とおちょこを置いた。


湯気が、立ちのぼる。


その瞬間、遠野さんの肩が、ぴくりと動いた。ゆっくりと顔が上がる。半分ほどけた髪の隙間から、目元のクマの濃い顔が、こちらを見た。


鼻が、わずかに動く。


「……これ」


「おでんです。金曜なので」


遠野さんは、のろのろと体を起こした。膝でにじり寄って、ローテーブルの前に座る。小麦が、定位置に戻ってまた丸くなった。


おちょこを手に取ろうとして、けれど遠野さんの目は、小鉢の大根に吸い寄せられていた。


金曜の深夜、髪をほどいて壁伝いに帰ってきたバリキャリが、犬を枕に玄関へ足を投げ出す。理由もなく「今日は誰か帰ってくる」と三時間おでんを煮ていた管理人さん――その静かな気配りにじんときたら、【にこにこ】か【いいね】を! 湯気の立った小鉢の続きは、ブックマークで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
おでんの出汁ってポン酒と合わせると何故ああも美味いのだろうか 冷えた体にはたまらんでしょうなぁ
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ