第1話 金曜日の、おでん
女性専用シェアハウス『常夜灯』の夜は、更けるほど静かになる。俺はこの家に住み込んで、賄いと掃除をやっている管理人だ。金曜の今夜も、住人の誰かが帰ってくるのを、台所で待っていた。
最初に動いたのは、小麦の耳だった。
リビングのソファで丸くなっていたのが、ぴくりと顔を上げる。玄関のほうへ鼻を向けて、低く「くぅん」と鳴いた。
俺はキッチンの火を弱めて、手を拭いた。時計は午前零時を回っている。
がちゃ、と玄関の鍵が開いた。
「……ただいま」
声に張りがない。遠野さんだ。靴を脱ぐというより、足から振り落とすような音がして、続いて、何か重たいものが床に落ちる音。革トートだ。
廊下に出ると、遠野さんがそこにいた。スーツのまま、壁に肩を預けている。きっちり結っていたはずの髪は半分ほどけて、頬にかかっていた。手にしたノートPCの鞄が、いまにも指から滑り落ちそうだった。
「お帰りなさい」
俺が言うと、遠野さんは目だけをこちらに向けた。
「すみません……こんな時間に、音を立てて」
「金曜ですから。こんな時間まで、お疲れさまでした」
俺は廊下に置かれたトートを拾い上げた。ずしりと来る。中でノートPCと資料の束が、れんがみたいに固まっているのが分かった。これを肩にかけて、終電に揺られて帰ってきたのか。
「持ちますよ」
「あ、いえ、自分で――」
遠野さんが手を伸ばしかけて、けれどその腕が、途中で力を失った。差し出した手が、ゆっくり下りていく。
「……お願いします」
ぽつりと言って、遠野さんは廊下を歩きだした。まっすぐ歩こうとして、わずかに壁伝いになっている。リビングに入るなり、ソファの手前のラグに、崩れるように膝をついた。
そのまま、ぱたりと横になる。
小麦が心配そうに近づいて、遠野さんの頬を一度だけ、ふんと嗅いだ。
「……小麦、いい子。あったかい」
遠野さんが、犬の金色の被毛に額を埋めた。それきり、動かなくなった。
家での遠野さんは、いつもこうだ。会社では一分の隙もない人なのだと、いつか累さんが言っていた。チーフで、後輩を何人も束ねていて、目つきが鋭くて、近寄りがたいくらいだと。
その人が、いま、犬を枕にして玄関のほうに足を投げ出している。
ジャケットの肩には、外の冷たい空気の匂いがまだ残っていた。靴下の片方が、半分脱げかけている。デスクで何時間も同じ姿勢でいた人の、固まった背中の線が、横たわってもまだ抜けきっていなかった。
リビングの黒板に目をやった。今朝、遠野さんが書いていったチョークの文字がある。
『今日、夕飯いりません。遅くなります。遠野』
几帳面な、角の立った字だった。きっと、本当に食べる時間なんてないと思って、書いていったのだろう。
それでも、人は、夜中に腹が減る。
俺は何も言わずにキッチンへ戻った。鍋の蓋を取ると、湯気がふわりと顔に当たった。
夕方から、ことこと炊いていたおでんだった。今日は金曜だから、誰か一人くらい、まともに食べられずに帰ってくる気がしていた。理由はない。ただ、長くこの仕事をしていると、なんとなく分かる夜がある。
大根は、三時間以上煮ている。下茹では、米のとぎ汁でやった。そうすると、大根の苦みが抜けて、出汁の甘みだけが染みていく。皮を厚めに剥いて、面取りをして、十字に隠し包丁を入れる。そのひと手間で、染みていく速さがまるで違う。
竹串を刺すと、すうっと、抵抗なく芯まで通った。飴色の出汁が、断面のひとつひとつの繊維まで染みているのが、見なくても分かる。昆布と鰹の出汁に、ほんの少しだけ薄口醤油。色を濃くしすぎないのは、大根の白を残したいからだ。
おでんは、関東と関西で、味が違うらしい。濃口の鰹か、薄口の昆布か。けれど俺は、どちらでもない、その家にいる人の顔を思い浮かべながら、毎回、少しずつ加減を変える。今日の出汁は、疲れて帰ってくる人のための、優しい味にした。塩気は控えめに。そのぶん、旨味で満たすように。
玉子は半分に割れる手前まで火を入れて、黄身に出汁を吸わせた。はんぺんは、最後にさっと温めただけ。煮すぎると、ふくらみが消えてしまう。
それと、牛すじ。これも下茹でを三度繰り返して、臭みを抜いてある。
小鉢に取り分けて、お盆に載せた。それから、徳利に酒を注ぐ。
遠野さんは、いける口だ。ザルと言っていい。けれど今夜は、冷やではなく、熱燗にした。冷たいものは、いまの体には染み込まない。温度の高い汁物や酒は、旨味も、人をほどく力も強い。疲れた夜には、ぬるすぎず熱すぎず、肌に近いくらいの温度がいちばん優しい。
俺は鍋に湯を張って、徳利をそっと沈めた。指で温度をはかる。これくらい。
お盆を持ってリビングへ運ぶと、遠野さんはまだ小麦の腹に顔を埋めていた。
「遠野さん」
返事はない。眠ってしまったのかと思ったが、肩がかすかに上下している。
「無理に起きなくていいですよ。でも、これだけ、置いておきますね」
ローテーブルに、おでんの小鉢と、徳利とおちょこを置いた。
湯気が、立ちのぼる。
その瞬間、遠野さんの肩が、ぴくりと動いた。ゆっくりと顔が上がる。半分ほどけた髪の隙間から、目元のクマの濃い顔が、こちらを見た。
鼻が、わずかに動く。
「……これ」
「おでんです。金曜なので」
遠野さんは、のろのろと体を起こした。膝でにじり寄って、ローテーブルの前に座る。小麦が、定位置に戻ってまた丸くなった。
おちょこを手に取ろうとして、けれど遠野さんの目は、小鉢の大根に吸い寄せられていた。
金曜の深夜、髪をほどいて壁伝いに帰ってきたバリキャリが、犬を枕に玄関へ足を投げ出す。理由もなく「今日は誰か帰ってくる」と三時間おでんを煮ていた管理人さん――その静かな気配りにじんときたら、【にこにこ】か【いいね】を! 湯気の立った小鉢の続きは、ブックマークで。




