第5話 人違いですよ
夕飯どきの常夜灯に、遠野さんが客を連れてきた。南雲さんという、名の知れたフードコーディネーターだ。その南雲さんが、俺の出した肉じゃがを一口食べるなり、「表舞台から消えた、伝説の人では」と、震える声で詰め寄ってきた。
──ああ。なるほど。
俺は、ようやく合点がいった。たぶん、誰かと、勘違いしているんだ。
俺はにこにこと、いつもの調子で、首をかしげた。
「人違いですよ」
南雲さんが、ぴたりと止まる。
「僕は、ただの管理人です」
「で、でも」
「肉じゃがなんて、誰が作っても同じような味になりますから。たまたま、お口に合っただけかと」
俺は、空になりかけた彼女の皿に目をやって、にこりと笑った。
「あ。おかわり、ありますよ」
そう言って、俺はおたまを持って、すたすたと台所へ戻った。土鍋の蓋を開ければ、また、ぶわりと湯気が立つ。
俺の背中に、四人と一人の、凍りついた視線が突き刺さっていた。
***
リビングは、しばらく、誰も口をきかなかった。
「……は……?」
最初に我に返ったのは、真壁さんだった。漫画家の鋭い目が、台所の俺の背中を、まじまじと見ている。
「いま、なんか……すごい単語が、聞こえた気がするんですけど」
「伝説の、って言ったよね。あの人」南雲さんを指して、小田切さんが囁く。
「世界中の要人、とも」と七瀬さん。
遠野さんは、青ざめていた。
「……私、あの人を、ただの管理人さんだと思ってた……昨日、お酒、ちょっとだけ付き合ってもらったんだけど……あの人、すごく強そうなのに、全然、顔色変わらなくて……まさか」
四人の頭の中で、いろんな点が、一本の線につながりかけていた。
スマホを持たない男。固定電話だけの暮らし。さりげなく良い、年季の入った包丁と片手鍋。地味なシャツの袖から覗く、安物ではない腕時計。重い米袋を、片手でひょいと持ち上げる、何気ない仕草。ぐらついていた食卓の脚を、いつのまにか直してしまう手際。
そして、誰が作っても同じはずの、肉じゃが。
「……あの人、ほんとは、なんなんだろ」
七瀬さんが、囁いた。
「いま、世界中の要人、って言ってたよね。聞き間違いじゃ、ないよね」
「うん。あたしも、聞いた」と小田切さん。
「……この管理人さん」
真壁さんが、ぽつりと呟いた。
「何者なの……?」
***
南雲さんは、結局、肉じゃがをおかわりして、二杯食べて帰っていった。帰り際、玄関で彼女は、俺の手を両手で握りしめて、深々と頭を下げた。
「……ごちそうさまでした。久しぶりに、料理で泣きました」
「大袈裟ですよ。たかが肉じゃがで」
俺がそう言うと、南雲さんは、もう一度、ふっと笑った。
「ええ。ええ、そうですね。きっと、私の人違いです」
何かを察したように、彼女は、それ以上は何も言わなかった。
「でも──また、食べに来てもいいですか。一人の客として」
「もちろんです。いつでもどうぞ」
俺は、頭を下げて、彼女を見送った。去り際、南雲さんは一度だけ振り返って、屋敷の灯りを、まぶしそうに見上げた。
「あなたが、こんな所にいてくれて……よかった。本当に」
その言葉の意味は、よくわからなかった。優しそうな人だったな、と思った。料理が好きで、ちゃんと味のわかる人は、いい人が多い。それ以上のことは、特に、考えなかった。
***
台所に戻ると、四人が、食卓のところに固まって、こちらを見ていた。なんだか、お化けでも見るような顔をしている。
「……どうかしましたか」
俺が訊くと、四人は、はっと顔を見合わせた。
「えっと……管理人さんって……」遠野さんが、おそるおそる切り出す。「昔、その……お仕事は、何を……」
「倉庫の管理を、ちょっと」
「そ、その前は」
「……いろいろ、ですかね」
俺は、湯飲みを片付けながら、曖昧に笑った。
昔の話は、あまりしたくない。思い出すと、通知音が、耳の奥で鳴る気がするから。過ぎたことだ。あの世界は、もう、俺には関係ない。
きらびやかな夜会も、秒刻みで鳴り続けた電話も、世界中から飛んできた無理難題も。全部、海の向こうに、置いてきた。
俺は今、ただの「ご飯が上手なおじさん」なのだ。傷ついた女の子たちの夜を、温かいご飯で照らす。登美さんが遺してくれた、それだけが、俺の仕事だ。
それで、十分なのだ。いや──それが、いい。
「あの、湯気の立つ実家の味の肉じゃがが、たまたま、誰かの琴線に触れただけですよ。深い意味は、ないんです」
四人は、まだ、信じられないという顔をしていた。俺は、その視線をやんわりと受け流して、ぱんと手を打った。
「あ。そうだ。お風呂、沸きましたよ」
「えっ」
「湯加減、ちょうどいいと思います。お先にどうぞ。湯冷めしないうちに」
いつものおじさんの声で、俺はそう言った。
四人は、毒気を抜かれたように、顔を見合わせた。それから、誰からともなく、ふっと吹き出した。
「……なんなの、ほんとに」
小田切さんが、笑いながら、ぼやいた。
「謎すぎるでしょ、この人」
***
その夜、二階へ上がっていく四人の背中は、初日より、ずっと軽そうだった。警戒は、もう、ほとんど残っていなかった。代わりに、それぞれの胸の中に、ちいさな「?」が、灯ったみたいだった。
俺は、食器を洗いながら、首をかしげた。
──みんな、最近、よく俺の顔を見るな。
具合でも、悪いんだろうか。明日は、精のつくものでも作ろう。
足元で、小麦が、満足そうに尻尾を振った。
管理人室の黒い固定電話は、今夜も、静かに沈黙を守っていた。世界中の誰も知らない、この家の番号。その電話が、いつか鳴る夜が来ることを──まだ、俺は知らない。
ただ、湯気の立つ台所に立って、明日のことだけを、考えていた。
「僕はただの管理人です。肉じゃがなんて、誰が作っても同じ味ですよ」――にこにこ受け流す背中に、住人と客の凍りついた視線が突き刺さる。この途方もない温度差に「何者なの……?」となったら、【びっくり】か【笑える】を! 灯りの点いた常夜灯を、ブックマークで一緒に。




