第4話 春の、食卓
夕方、宴の片付けをしていると、玄関のほうで物音がした。
「ただいまー」
聞き慣れた声だった。隣人の、佐和子さんだ。登美さんの娘の彼女は、時々こうして実家代わりに、ふらりとやってくる。
「あら、お花見? いいわねえ。お母さんの桜、今年もきれいに咲いたのね」
「佐和子さん。おかえりなさい。ちょうど、お弁当が少し残ってますよ」
「えっ、いいの? わあ、嬉しい」
佐和子さんが、重箱を覗き込んで目を見開いた。
「……ちょっと。周さん、これ、お店出せるわよ。私の作るのと、レベルが違う」
「いやいや、家庭料理ですよ」
「どこの家庭よ」
佐和子さんが、呆れたように笑って、ござに腰を下ろした。母親譲りの、面倒見のいい笑顔だった。登美さんの面影が、ふとそこに重なった。
***
日が、暮れていく。桜が夕焼けに染まって、薄紅から淡い橙に変わっていった。
俺は、リビングへ続く明かりを、ぽつりと灯した。
「そろそろ、冷えてきましたね。中で、温かいお茶でも」
「はーい」
四人と、佐和子さんと、小麦が、ぞろぞろと家のなかへ入っていく。その背中を見送りながら、俺は最後にもう一度、暗くなりはじめた桜を振り返った。
花びらが一枚、はらりと、俺の肩に落ちた。そっと指で摘んで、見つめる。
──また、来年も。
そう呟いて、俺は、灯りのほうへ歩き出した。
家のなかから、賑やかな笑い声がこぼれてくる。その声に向かって、俺も帰っていった。
***
桜が散って、葉桜になった頃。日々は、また、いつものように流れていた。
特別なことなど、何もない。
朝、出汁を引く。掃除をして、洗濯をして、買い出しに行く。壊れた建具を直し、小麦を散歩に連れていき、夕方には台所に立つ。そういう、なんでもない一日の、繰り返し。
けれど、俺は今、それを心から幸せだと思える。
***
その夜は、雨が降っていた。春の、やわらかい雨だった。
俺は台所で、ことことと出汁を温めていた。今日のまかないは、湯豆腐。昆布だしで、ゆっくりと。それから、しじみの味噌汁と、だし巻き卵。簡単な、いつもの夕飯だ。
リビングでは、小麦が特等席のベッドで、まあるくなって寝ている。雨の音が、窓の外で静かに続いていた。
時計の針が、夜の遅い時間を指した頃。玄関が、そっと開いた。
「……ただいま」
疲れた声だった。怜さんだ。残業で、遅くなったらしい。スーツの肩が雨で、少し濡れている。
「おかえりなさい。大変な一日でしたね」
俺は台所から、声をかけた。
怜さんは、玄関でこつんと靴を脱いだ。そして、リビングのソファにぱたりと倒れ込んだ。去年の春、初めて会った夜と同じ姿で。けれど、あの時のような刺すような警戒は、もうどこにもなかった。
「……うん。今日は、ちょっと、長かった」
去年の、あの夜と同じ言葉が、自然と口をついて出た。
「とりあえず、温かいご飯にしましょうか」
俺は、湯豆腐の鍋を卓へ運んだ。ことこと、と湯気が立つ。昆布だしのなかで、白い豆腐がゆらりと揺れていた。
「……いい匂い」
怜さんが、ソファからのそりと起き上がった。その音に気づいて、小麦がぱちりと目を開けた。ベッドからのっそりと立ち上がって、怜さんの足元にぽすんと顎を載せる。
「ただいま、小麦」
怜さんが、その金色の頭をくしゃりと撫でた。
***
俺は、だし巻き卵を菜箸でくるくると巻いた。じゅう、と卵が鳴いて、ふるりと半熟のだし巻きが立ち上がる。それを、卓に置いた。
怜さんは、湯豆腐をぽん酢につけて、ひと口頬張った。ほろりと崩れる豆腐から、昆布の旨味がじんわりと広がる。
煮立てては、いけない。七十度を少し超えたあたりで、温める。そうすれば豆腐に「す」が立たず、絹のようになめらかなまま。昆布だしのグルタミン酸が、大豆の淡い甘みを、そっと底上げする。
派手な味じゃない。けれど、疲れた夜にいちばん沁みるのは、こういう、静かな一杯だ。
「……はあ」
長い、息が漏れた。
「沁みる」
「日本酒、つけますか」
「……いいの?」
「お疲れの日くらい」
俺がおちょこと、冷やの瓶を差し出すと、怜さんは嬉しそうに目を細めた。ひと口、含んで。それから、ぽつりと言った。
「やっぱり、ここに帰ってくると、ほっとする」
雨の音が、窓を優しく叩いていた。俺は向かいに座って、湯気の立つ鍋を見ていた。
怜さんが、だし巻きをひと切れ、口に運ぶ。その箸が、ふと止まった。去年の春、初めての夜に、まひるさんがそうしたように。
「……変わらないね、この味」
「ええ」
「一年経っても、全然、変わらない」
「変わらないように、作ってますから」
怜さんは、ふっと笑った。それから、おちょこを両手で包んで、言った。
「変わらないものが、一つでもあるって。それが、どれだけ、ありがたいか。前は、わからなかった」
雨の音だけが、二人のあいだに静かに流れた。怜さんが、おちょこの縁を指でなぞりながら、ぽつりと続けた。
「……ありがとう。柏木さん」
柏木さん、と。初めて会った夜、「あなた、誰」と俺を睨んだこの人が、いつの間にか、そう呼ぶようになっていた。「管理人さん」でも、ましてや「あなた」でもなく。たった三文字。けれど、一年という時間が、そこにぜんぶ詰まっている気がした。
俺は、何も言わずに、ただ頷いた。
決定的な台詞を、大声で言う必要はない。ただ、温かいご飯を、湯気の立つうちに出す。それだけで、いい。
湯豆腐の鍋が、ことこと、と小さく鳴った。だし巻きの甘い匂いが、二階へ続く階段のほうまで、そっと立ちのぼっていく。
その匂いに誘われるように、二階でぱたぱたと、いくつかの足音が動きはじめた気がした。──今夜も、賑やかになりそうだ。
一年前と同じソファ、同じ言葉、同じ味。「変わらないものが、一つでもあるって。それが、どれだけ、ありがたいか」。静かな湯豆腐の湯気に胸があたたかくなったら、【にこにこ】か【いいね】を! 完結まであと一話——ここまでの旅に、よろしければ★評価を。




