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第2話 累さんの、新連載

夜。


締切明けの累さんが、ふらりと台所に現れた。目の下のクマが薄くなっている。きれいな顔の日だ。


「柏木さん。ちょっと、聞いてほしいことが」


柏木さん、と。いつからか累さんは、俺をそう呼ぶようになっていた。


メンチカツサンドを出すと、彼女は片手でそれを摘んで、もう片方の手で液タブを差し出した。ラフ帳の、新しいネームだった。


「次の連載、決まりそうで。それで、ずっと考えてて」


肉汁の滴るサンドを齧りながら、累さんは画面をスクロールした。


「今までの私の漫画って、全部、派手なバトルとか、すごい異能とか、そういうのだったの。覆面で描いてるのも、そのほうが、売れるから」


「ええ」


「でも、今度のは、なんでもない話なの。古い家で、ご飯を作る人と、そこに帰ってくる人たちの、ただの、日常の話」


俺は画面を覗き込んだ。そこに描かれていたのは──台所に立つ、エプロン姿の、誰か。


「これ……」


「言わないで」


累さんが、ぴしゃりと遮った。その頬が、見る間に赤く染まっていく。


「モデルとか、そういうのじゃないから。たまたま。たまたま、こういう、地味なおじさんを、描きたくなっただけで」


「はあ」


「とにかく。覆面のままだけど、初めて、『素の自分』が描きたいものを、描く。バトルじゃなくて、湯気の立つ、こういう話を」


累さんは、液タブをぎゅっと抱えて、早口で言った。


「……怖いけど。売れなかったら、どうしようって。でも、描きたいから」


「いいと思います」


俺は、静かに言った。


「君が描きたいものを描いた漫画は、きっと、誰かの帰る場所になりますよ」


累さんは、サンドを齧る手を止めた。それから、何か言いかけて、やめて、液タブで顔の下半分を隠した。


「……肉汁、垂れてますよ」


「言わないでってば!」


***


その夜、四人はリビングに集まっていた。


俺が片付けをしながら聞くともなしに聞いていると、怜さんが、ぽつりと言った。


「私たち、ここに来て、変われたね」


少しの沈黙のあと、まひるさんが首を振った。


「ううん。変わってないですよ、私たち」


「え?」


「だって、私、今でも電話怖いし。ゆめちゃんも、すぐ拗ねるし。累さんも、相変わらず締切でボロボロだし」


ゆめちゃんが「失礼な」と笑い、累さんが「事実だけど」と頷いた。


「ただ──」


まひるさんは、台所のほうをちらりと見た。俺は気づかないふりで、皿を拭いた。


「帰る場所が、できただけ」


四人が、静かに笑った。


火花も、独占欲も、もう、微笑ましい日常の一部になっていた。「私だけの管理人さんだったのに」と頬を膨らませるのも、「抜け駆けは許さない」と睨み合うのも、全部、この家の、いつもの夜の風景だった。


俺は、その背中たちを見ながら思った。


誰も、劇的には変わっていない。ただ、それぞれが、ほんの少しだけ、前へ。


──それで、いいんだ。


茶の湯気が、灯りのなかで静かに揺れていた。


***


桜が、咲いた。


中庭の真ん中に立つ、一本の老木。登美さんがずっと大切にしていたという、古い桜だ。それが今年も、ふわりと淡い雲のように咲いた。


「今日は、花見にしましょうか」


俺がそう言うと、四人の目がぱっと輝いた。


***


朝から、台所は戦場だった。俺は二段の重箱を、卓いっぱいに広げていた。


筍(たけのこ)ご飯。掘りたての筍を米ぬかでアク抜きして、出汁で炊き込む。蓋を開けると、ほろ苦い春の香りがふわりと立ちのぼった。


「うわ、いい匂い」


ゆめちゃんが鼻をひくつかせて、台所を覗き込む。


「つまみ食い、禁止ですよ」


「えー」


桜エビのかき揚げは、油の温度を見計らってさっと揚げる。じゅわ、と音を立てて、薄紅色のエビが衣のなかで弾けた。香ばしい匂いが台所に満ちる。


衣を、薄く。揚げすぎず、エビの香りを立たせる。油のなかで薄紅色がぱっと鮮やかに咲く瞬間が、いちばん旨い。それを、逃さない。


──桜エビは、釜揚げより生のほうが、香りが立つ。


頭のなかでそんなことを呟きながら、手はもう、次の一品へ動いていた。


だし巻き卵は、いつもより甘く。蕗(ふき)の薹《とう》の天ぷらは、ほろ苦さを揚げて和らげて。煮しめ、菜の花のおひたし、鯛の昆布締め。そして、桜の塩漬けを散らした、淡い桃色のおにぎり。


「これ、全部、一人で作ったんですか」


まひるさんが、重箱を覗き込んで目を丸くした。


「まあ、慣れてますから」


「慣れてるって、レベルじゃ……」


派手なバトルばかり描いてきた覆面漫画家が、初めて“素の自分”で、湯気の立つ日常を描きたくなる回。液タブで顔を隠すあの赤面に、ふふっとなったら【笑える】か【にこにこ】を! 「帰る場所ができただけ」という着地に頷けたら、★評価であたたかく背中を押してください。

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