第1話 それぞれの、一歩
冬が、終わっていた。
中庭の梅が散って、芽吹きの匂いが風に混じりはじめた頃。俺は朝の台所で出汁を引きながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。
去年の春、この家の固定電話の線を震える指で差し込んだ。あれから一年が経とうとしている。あの夜、警戒の目で俺を見ていた四人は、今もここにいる。
そして俺は相変わらず、ただの賄い係をやっている。
***
その日の朝、最初に下りてきたのは怜さんだった。
スーツ姿。けれど、以前のような擦り切れた目ではなかった。
「おはようございます。今日、早いんですね」
「うん。……ちょっと、報告があって」
おちょこを傾けるのが似合うこの人が、台所のカウンターにこつんと頬杖をついた。
「私ね、異動、断ったの」
「断った」
「うん。上が、管理職の話を持ってきてくれて。表に立つポジション。前の私なら、飛びついてた」
怜さんは、出来たての出汁を湯呑みでひと口もらって、息を吐いた。
「でも、私、気づいたの。私が本当に好きなのは、人前で笑うことじゃなくて、企画を裏で組み立てることだって。台割を作って、数字を読んで、若い子のミスを拾って。地味だけど、それが、私の仕事だって」
「いい仕事ですよね、それ」
「……でしょ」
怜さんは、ふっと笑った。
「裏方でいい、って言えるようになるのに、三十一年かかった」
そう言って、彼女は空になった湯呑みをことりと置いた。
「管理人さんの、おかげかもね」
「俺は、何も」
「うん。何もしてない。ただ、ご飯作って、聞いてただけ。……それが、よかったの」
スーツの背中が玄関へ向かう。以前のように玄関で靴を脱ぎ散らかす人が、今朝はきちんと爪先を揃えて出ていった。
***
昼前、固定電話が鳴った。黒い受話器を取ると、聞き慣れない若い男の声だった。
「あの、すみません。七瀬まひるさんの、取引先の者なんですが」
俺が取り次ごうとすると、廊下の奥からぱたぱたと足音がした。
「あ、私です。私が出ます」
まひるさんだった。在宅の日らしい。俺から受話器を受け取って、彼女は、すう、と小さく息を吸った。それから、はっきりした声で言った。
「お電話ありがとうございます。七瀬です」
俺は、台所へ下がった。
少し前のまひるさんなら、電話が鳴るたびに肩をびくりと震わせていた。誰かが出てくれるのを、祈るように待っていた。それが今、自分から受話器を取っている。
「はい。……はい、その件でしたら、明日の朝までに。……いえ、大丈夫です。お任せください」
通話を終えたまひるさんが、受話器を置いてこちらを振り返った。
「……出れました」
ぽつり、と。
「電話、自分から、出れました」
その目が、じわりと潤んでいた。
「前は、無理だったのに。鳴るだけで、お腹痛くなってたのに」
俺は菜箸を置いて、彼女を見た。
「頑張ってるの、俺は知ってますよ」
「……っ」
まひるさんが、ぐ、と唇を噛んだ。それから、ぐすっと洟をすすって笑った。
「もう。それ、ずるいです、周さん。それ言われると、私、すぐ泣いちゃうのに」
周さん、と。いつの頃からか、まひるさんも俺をそう呼ぶようになっていた。「管理人さん」と他人行儀に呼んでいたあの頃の硬さは、もうどこにもなかった。
「すみません」
「謝らないでください……」
ぽろりと、堪えきれなかった涙が一粒、零れた。それを彼女は、手の甲でぐいと拭った。
足元で小麦が「くぅん」と鼻を鳴らして、まひるさんの脚にぽすんと寄り添った。彼女は、その金色の頭をくしゃくしゃと撫でながら、ぐずぐずと笑っていた。
***
午後。
俺が中庭のウッドデッキの建付けを直していると、ゆめちゃんがタブレットを抱えて出てきた。
「ねえ、周さん」
「おじさん」でも「管理人さん」でもなく、「周さん」。いつの間にか、そう呼ばれるようになっていた。
「ちょっと、これ、見て」
差し出されたタブレットの画面に、一枚の絵があった。専門学校の、課題作だという。布の質感の出たコート。明るい色使い。
「学内のコンペで、佳作、取った」
「すごいじゃないですか」
「いや、佳作だよ? 最優秀じゃないし。たいしたことない」
そう言いながら、ゆめちゃんの口元は、隠しきれずにゆるんでいた。
「でも、講評でね。『色の選び方に、その人らしさがある』って、書いてあって」
「その人らしさ」
「うん。……私、ずっと、自分には何もないと思ってた。みんな、夢とか、やりたいこととか、ちゃんとあって。私だけ、フォロワーの数くらいしか、誇れるもの、なくて」
ゆめちゃんは、タブレットをぎゅっと胸に抱えた。
「でも、私の色を、いいって言ってくれる人が、いた。たった一人でも」
「……ええ」
「これって、ちょっとは、何か、あるってことかな」
俺は工具を置いて、彼女の絵をもう一度見た。深夜に、課題の横にトーストを置いた時のことを思い出していた。あの頃、この子は画面の前で、よく一人で泣いていた。
「ありますよ。たっぷり」
そう言うと、ゆめちゃんは、ぷいと顔を背けた。
「……べつに、周さんに認められたくて言ったんじゃ、ないし」
耳が、赤かった。
「ノックしてって言ったのに、勝手に部屋入ってこないでよね」
「いや、ここ、中庭ですけど」
「うるさい」
ぷりぷりしながら、けれど、ちょっと弾んだ足取りで、ゆめちゃんは家に戻っていった。
俺は、直しかけのウッドデッキに、また屈み込んだ。三人が、それぞれの一歩を。ならば、もう一人。
あの覆面の漫画家が、まだ一歩を見せていないことに、俺はこのとき、気づいていなかった。日が暮れて、締切明けの累さんが台所に現れるのは、それから数刻あとのことだった。
あれから一年。誰も劇的には変わっていない。ただ、それぞれが、ほんの少しだけ前へ。「電話、自分から、出れました」の一粒の涙に、そっと拍手を送りたくなったら、【泣ける】か【いいね】を! ここまで見守ってくださった気持ちを、よければ★評価で残していただけたら嬉しいです。




