第5話 あなたが、ここにいる理由
「……あの」
最初に口を開いたのは、怜さんだった。
「ピエールさん、でしたっけ。一つ、訊いていいですか」
「なんなりと」
「管理人さんは……もう、あちらの世界に戻った方が、いいんでしょうか。こんな人が、こんな小さな家にいるのは──」
怜さんの声が、震えた。
「もったいない、ですよね。本当は」
リビングが、静まった。
ピエールさんは、しばらく黙って。それから、俺を見た。
「それは、私が決めることでも、君たちが決めることでもない。──柏木くん。君が、決めることだ」
全員の視線が、俺に集まった。
俺は、お盆をそっと食卓に置いた。そして、ゆっくりと顔を上げた。
***
「ピエールさん」
俺は、言った。
「お師匠さんには、ずいぶんご心配をおかけしました。あの夜、何も言わずに消えて。本当に、申し訳ありませんでした」
深々と、頭を下げる。
「いいんだ。君は、もう、十分すぎるほど戦った」
「でも」
俺は、顔を上げた。
「俺は、もう、戻りません」
きっぱりと言った。自分でも驚くほど、迷いのない声で。
「あちらの世界で、俺は、何百万人を幸せにできました。でも、その俺を心配してくれる人は、一人もいなかった。俺は、ずっと空っぽで。誰かに甘えることも、できずに」
俺は、四人を見た。
「この前、俺、熱を出して、倒れたんです。情けない話ですが」
「ちょっと、情けなくないって、言ったでしょ」
まひるさんが、すかさず口を尖らせた。
俺は、笑った。
「そうしたら、この子たちが──しょっぱくて、米ののびきった雑炊を作ってくれて。額を冷やしてくれて。『甘えてください』って、言ってくれたんです」
俺の声が、少し掠れた。
「生まれて、はじめて、でした。誰かに受け取ってもらったのは。……俺の居場所は」
俺は、リビングを見回した。軋む廊下。暖炉。食卓。小麦。そして、四人。
「もう、ここですから」
***
ピエールさんは、しばらく、俺を見つめて。それから、ふっと目を潤ませた。
「……そうか」
ただ、ひと言。
「そうか。よかった」
そう言って、皺の刻まれた顔で、心から笑った。
「これで、私も、安心して引退できる。君が、あんなにボロボロで消えてしまった夜から──ずっと、心残りだったんだよ。私の、いちばんの教え子が、幸せになれたかどうか」
ピエールさんは、立ち上がり、四人に向き直った。そして、深々と頭を下げた。
「お嬢さんたち。どうか、これからも、彼をよろしく頼みます。彼は、与えるのは得意だが──受け取るのが下手な男だ。時々、無理をする。だから、君たちが、気づいてやってほしい」
四人が、しっかりと頷いた。
ゆめちゃんが、胸を張って言った。
「任せてください。私たち、もう、管理人さんのこと、ぜんぶ、見張ってますから」
「そうそう。今度、無理したら、また、雑炊、作るし」
「ちょっと、累。それ、脅しになってないよ」
「えー、私の雑炊、そんなに、ひどかった?」
リビングが、ふっと笑いに包まれた。
***
ピエールさんが帰る際。玄関先で、ふと振り返った。
「柏木くん。もし、いつか、戻りたくなったら──いつでも、戻ってこられる。世界は、いつでも君を待っている。それだけは、覚えておきなさい」
俺は、首を横に振った。そして、穏やかに微笑んだ。
「いえ。俺の居場所は、もう、ここですから」
隣で、四人が笑っている。足元で、小麦が尻尾を振っている。
その光景を、ピエールさんは、眩しそうに見て。
「……ああ。本当に、いい場所を見つけたな」
そう言って、雪の道へ消えていった。
***
その夜。俺は、ひさしぶりに台所に立った。
「皆さん。何か、リクエスト、ありますか」
「白粥!」
真っ先に声を上げたのは、まひるさんだった。
「管理人さんの、原点の味、食べてみたいです。さっきの、王様も、泣いたっていう」
「……あれは、ただの白粥ですよ」
俺は、笑って、米を研いだ。土鍋に、米とたっぷりの水。弱火で、ことことと。ゆっくり、ゆっくり炊いていく。
米が、湯のなかでふっくらとほどけて。とろりと白く煮上がっていく。塩を、ほんのひとつまみ。それだけ。
何の、飾りもない一杯。
***
椀によそって、配る。湯気が、ふわりと四つの顔を照らした。
「いただきます」
四人が、ひと匙すすった。
「……あ」
「やば」
「なんで、こんな、何も入ってないのに」
「……あったかい」
四人の目が、潤んでいく。
何の変哲もない白粥。でも、それは、登美さんが、雨の夜に、行き倒れの俺に出してくれた、あの一杯と。きっと、同じ味だった。
誰かを儲けさせるためでも、感心させるためでもない。ただ、目の前の大切な人の命を繋ぐための、一杯。
俺は、自分の椀の白粥をすすった。温かさが、じんわりと体に染みていく。
──登美さん。
俺、ようやく分かりました。あなたが、なぜ俺を選んだのか。あなたが、俺に何を遺したかったのか。
それは、伝説でも、腕でもなくて。ただ、ここで、こうして。誰かと、温かいものを分け合って。「おかえり」と「ただいま」を言い合える。そんな、ささやかな毎日でした。
***
「ねえ、管理人さん」
白粥を食べ終えた怜さんが、ふと言った。
「結局、私たち、まだ訊いてなかったね。ずっと、知りたかったこと」
「なんでしょう」
「管理人さんの、下の名前。なんて読むの。表札、『周』って、書いてあるけど」
俺は、少し驚いた。そういえば、誰にも言ったことがなかった。
「……周、です。柏木周。みんなを、あまねく照らせるように、って。母が付けてくれた名前です」
四人が、顔を見合わせた。それから、ゆめちゃんが、にっと笑った。
「いい名前。……ねえ、周さん」
呼び方が、変わった。「おじさん」でも、「管理人さん」でも、なく。
「これから、そう呼んでいい? 周さんって」
俺は、たれ目をゆるめて笑った。
「ええ。よろこんで」
雪の止んだ、冬の夜。常夜灯の灯りは、いつもより、ほんの少し温かく。俺の帰る場所を、静かに照らしていた。
「もったいない、ですよね。本当は」——その問いに、迷いのない声で返す一言。何の変哲もない白粥の湯気と、そっと変わる呼び名にほろりときたら、【にこにこ】か【泣ける】を! この温度をずっと追いたくなったら、ブックマークで一緒に。




