第4話 さっきの、あの人は誰
リビングの入口には、いつのまにか、まひるさんと、ゆめちゃんと、累さんの三人が、息を呑んで立っていた。階段の途中から、ずっと、聞いていたらしい。
三人とも、揃って、ぽかんとしていた。
「……ねえ」
最初に口を開いたのは、ゆめちゃんだった。
「さっきの人、誰……?」
「え?」
俺は、きょとんとした。
「いや、俺ですけど」
「そうじゃなくて! 声、別人だったし。あんなにスパッと、言い返して。法律とか、すらすら出てきて。管理人さん、あんな喋り方、できるの」
「……普通のこと、言っただけですよ?」
三人が、顔を見合わせた。普通ではない、という顔で。
足元で、小麦が、ようやく尻尾を振りはじめた。冷えていた家の空気が、戻ってきた、と知らせるように。
俺は、湯気の立つカップを、怜さんの前に置いた。
「どうぞ。冷める前に」
怜さんは、涙でぐしゃぐしゃの顔で、それでも、両手でカップを包んだ。その温かさに、ほっと、肩から力が抜けたのが、見てとれた。
ひとくち、飲んで。
「……あったかい」
そう、呟いた。
その声に、もう、芯が抜けていなかった。
***
「離れて、いいんだ」
怜さんが、ぽつりと、そう言ったのは、その三日後の夜だった。
母親が帰ってから、怜さんは、少しずつ、戻ってきた。
翌日には、ごはんを、ちゃんと食べた。その次の日には、出社した。帰ってきて、玄関で靴を脱ぎ散らかして、リビングに倒れ込む、いつもの怜さんに。
そして、三日目の夜。
俺が、鍋の支度をしていると、怜さんが、台所に来た。
「管理人さん」
「はい」
「あのね。母に……ちゃんと、電話したんです」
おたまを持つ俺の手が、止まった。
「『私は、ここにいる』って。『心配してくれてありがとう、でも、私の人生は、私が決める』って。──三十一年、初めて、言えました」
怜さんは、少しだけ笑った。けれど、その笑みは、まだ、こわばっていた。
「言ってる途中、声、震えてました。心臓も、すごい音、立ててて。──正直、勝った、とか、そういうのじゃ、全然なくて」
袖口を、指で、きゅっと握る。
「ただ、怖かったのを、ひとつ、越えられた。それだけなんです。電話、すぐ切られちゃったけど。でも──言えたこと自体が、なんか、すごく」
「ですね」
「離れて、いいんだ、って。初めて、思えました。嫌いになるんじゃなくて。ただ、ちゃんと、別の人間として、離れて、いいんだって」
俺は、頷いた。
震える声で、それでも、受話器を置かなかった。きっと、それが、いちばん難しいことだ。家族を、嫌いになる必要はない。ただ、自分の人生の手綱を、ほんの少しだけ、自分の手に取り戻す。それだけのことが、人によっては、何十年もかかる。
「ごはん、できますよ。今夜は、鍋です」
「鍋?」
「常夜鍋。豚肉と、ほうれん草だけの、シンプルなやつ。毎晩食べても飽きないから、常夜鍋っていうんです」
怜さんが、ふっと笑った。
「常夜灯の、常夜鍋。……前に、ゆめちゃんが言ってましたね。おそろいだって」
「よく、覚えてましたね」
俺も、つられて笑った。
***
その夜は、四人が、リビングに揃った。
土鍋を囲んで、まひるさんと、ゆめちゃんと、累さんと、怜さん。
昆布だしを張った鍋が、ことこと鳴っている。豚の薄切りを、さっと湯にくぐらせる。ほうれん草を、しゃぶしゃぶと泳がせる。ポン酢につけて、はふはふと頬張る。
「あつっ……でも、おいし……!」
まひるさんが、口をはふはふさせながら、目を細める。
豚肉のビタミンB1が、疲れた体に効く。ほうれん草の鉄分が、それを助ける。湯気が、四人の顔を、やわらかく照らしている。
「怜さん、お酒は?」
俺が訊くと、怜さんは、少し考えて、首を振った。
「今日は、いいです。素面で、覚えておきたいから。みんなで、こうやって、鍋つついてること」
その言葉に、ゆめちゃんが「えー、なに、いい話ぽくしないでよ」と茶化して、みんなが笑った。
小麦が、テーブルの脇で、物欲しそうに鍋を見上げている。
「小麦は、だめだよ。ねぎ類は、犬には毒なんだ。あとで、お前のごはんを、ちゃんと用意するから」
俺がそう言うと、小麦は、わかったような、わからないような顔で、「くぅん」と鼻を鳴らした。それを見て、また、みんなが笑った。
冷えていた家が、すっかり、温まっていた。
***
鍋が、半分ほど減った頃。
累さんが、れんげを置いて、ふいに、俺を見た。人間観察が、職業の人だ。その目が、いつもより、静かだった。
「ねえ、管理人さん」
「はい」
「管理人さん、さっきから、自分の分、ほとんど食べてないよね」
俺は、おたまを持ったまま、きょとんとした。
「そうでしたっけ」
「そうだよ。みんなのお椀には、よそってるのに。自分の前のお椀、空っぽのまま」
言われて、自分の椀を見た。たしかに、ほとんど、減っていなかった。みんなが食べる手を、見ているうちに、自分が食べることを、忘れていたらしい。
「ああ、ほんとだ。じゃあ、いただきます」
そう言って、豚肉を、ひとくち。
けれど、累さんの目は、まだ、こちらを見ていた。
「……それと、ね」
「はい」
「あの日から──怜さんのお母さんが来た日から、管理人さん、ちょっと、無理してない?」
リビングの空気が、ふっと、変わった。
「あんな喋り方、できるの」——住人たちの“答え合わせ”が、こっそり始まる回。ミルクティーの相談で一瞬にして抜けた顔に戻る落差に笑ったら、【笑える】か【にこにこ】を! 正体の輪郭が気になったら、ブックマークで追ってください。




