第5話 守る人を、守るのは
「無理、ですか」
俺は、笑って、受け流そうとした。
「いや、別に。普通ですよ」
「ほら、それ」
累さんが、れんげの先を、俺に向けた。
「『普通』。管理人さん、しんどいとき、絶対『普通』って言う。私、ずっと観察してたから、知ってるんです」
ぎくり、とした。
「あの日の夜、私、トイレ起きたとき、見たんです。管理人さんが、台所で、ひとりで、右手、ぐーぱー、してた。あれ、疲れたときの、癖でしょう」
怜さんが、はっと、こちらを見た。まひるさんも、ゆめちゃんも。
「あの怖い顔って……たぶん、ものすごく、消耗するんだよね。管理人さん、平気な顔して、いつも私たちのために、それを出してくれてる。あの日だって、怜さんのために」
累さんは、まっすぐに、俺を見た。
「でも、その後、誰にも甘えないで、ひとりで、台所で、ぐーぱーしてた」
***
俺は、何も言えなかった。
こういうのは、初めてだった。
誰かの心配ごとを、聞くのは、慣れている。誰かの疲れに、気づくのも、得意なつもりだ。けれど、自分が、その目で、見られることには。
「管理人さん、いっつも、与えてばっかりだよね」
ゆめちゃんが、ぽつりと言った。
「ごはん作って、話聞いて、私たちのこと守って。でも、自分は、誰に、ごはん作ってもらってるの? 誰に、話、聞いてもらってるの?」
「……」
「管理人さんは、誰に、甘えてるんですか」
その問いに、俺は、答えを持っていなかった。ずっと、考えたことが、なかったからだ。
俺は、与える側だ。それが、登美さんに拾われたときから、決めたことだった。もう、受け取る側には、戻らない。戻れない。そう、思っていた。
「……俺は」
口を開いて、けれど、続きが出てこなかった。
***
「あのね」
怜さんが、静かに、言った。
「私、母に言ったんです。『私の人生は、私が決める』って。──それ、管理人さんに、教わったんですよ。管理人さんが、あの日、私の家だって、言ってくれたから」
「……」
「だから、今度は、私たちが言います」
怜さんは、れんげを置いて、まっすぐに、俺を見た。
「ここは、管理人さんの家でも、あるんです。私たちの家であると同時に。だから──たまには、甘えてください。守ってもらってばっかりは、こっちが、落ち着かないので」
四人が、頷いた。
俺は、なんと言っていいか、わからなくて。ただ、湯気の立つ鍋を、見ていた。
胸の奥の、古い場所が、ことりと音を立てた。それは、第1話の夜に蓋をした、あの場所と、同じところだった。
「……ありがとう、ございます」
やっと、それだけ、言った。
「俺、たぶん……甘え方を、忘れてるんで。思い出すのに、少し、時間がかかるかもしれません」
「いいよ」
累さんが、笑った。
「ゆっくりで。私たち、待つの、得意だから。──ね?」
ほかの三人が、うん、と頷いた。
足元で、小麦が、俺の膝に、大きな頭を、ぐいと載せてきた。
***
鍋を、締めまで、平らげた。
最後は、残った出汁に、ごはんと溶き卵を入れて、雑炊にした。具材から溶け出した旨味を、米が、余さず吸う。宴の、いちばん最後の、贅沢な一杯だ。
みんなが、はふはふと、それをすすった。
「あー、生き返るー」
ゆめちゃんが、お腹をさすって、ソファに、ぐったりと沈んだ。
笑い声が、リビングに、満ちていた。冷えていた家が、ちゃんと、温まって、ここが「帰る場所」だと、誰もが、思っている顔だった。
俺は、その光景を、台所から、見ていた。
守る人を、守るのは。
考えたことが、なかった。けれど、もしかしたら、それは──。
そこまで考えて、俺は、首を振った。今は、いい。今は、ただ、この温かさを、見ていたい。
***
夜が更けて、みんなが部屋に戻り、家が静かになった頃。
俺は、ひとり、台所で、洗い物をしていた。蛇口の水音だけが、響いている。
握った右手の指を、ゆっくりと、開いては、閉じた。今夜は、もう、冷たくなかった。
そのときだった。
管理人室の、固定電話が、鳴った。
りん、りん、と。
夜の十一時を回っている。こんな時間に、固定電話が鳴ることは、めったにない。
俺は、手を拭いて、受話器を取った。
「……はい、常夜灯です」
電話の向こうで、しばらく、沈黙があった。それから、聞こえてきたのは、ずいぶん、年老いた声だった。
『……柏木さん、ですか。あの、柏木 周、さん』
その呼ばれ方を、俺は、知っていた。
「管理人さん」でも「周さん」でもない。フルネームで、そう呼ぶ人間は──もう、この世界に、ほとんど、残っていないはずだった。
受話器を持つ手に、知らず、力が入った。
『あなたを、ずっと、探していました。──昔の、あの件で』
柱時計の振り子が、こつ、こつ、と鳴っている。その音が、やけに、遠く聞こえた。
窓の外で、冬の雨が、また、降りはじめていた。
与えてばかりの人は、誰に甘えているんだろう。人間観察のプロにそっと見抜かれ、言葉に詰まる管理人さんに胸が締めつけられたら、【泣ける】か【いいね】を! 夜十一時、静かに鳴った固定電話の“引き”は……続きをブックマークで。




