第3話 ここは、彼女の家です
「怜さん」
俺は、お盆を持って、リビングに入った。
「お母さま。お茶を、お持ちしました」
湯気の立つ湯呑みを、二つ、テーブルに置く。エプロンを、まだつけたまま。袖を、まくったまま。
母親は、俺を、はっきりと見上げた。
「あなた、管理人さんね。悪いけれど、これは、うちの家庭の問題なの。口を挟まないで」
「ええ」
俺は、頷いた。
「ですので、ひとつだけ、確認させてください」
そして、怜さんと母親のあいだに、さりげなく、一歩。立ち位置で、線を引いた。
視線は、外さない。声は、張らない。ただ──語尾を、言い切る。
普段の俺の喋りは、語尾が柔らかい。「〜かなあ」とか、「〜ですよね」とか。それが、消えた。
「ここは、彼女の家です」
母親の眉が、わずかに動いた。
「家、ですって? シェアハウスでしょう。仮の住まいよ。本当の家は、私たちのところ──」
「いいえ」
俺は、静かに、しかし、はっきりと、遮った。
「家賃を払って、自分の意思で借りている部屋は、その人の家です。法律でも、そうです。借りている人の同意なく、誰かを連れ出すことはできません。たとえ、ご家族でも」
「……」
「娘さんは、もう、自分の家賃を払う、大人です」
***
母親の口が、半分、開いた。
何か言い返そうとして、けれど、続く言葉が出てこなかった。
俺は、続けた。声を荒げない。脅さない。ただ、事実を、一枚ずつ、置いていく。
「お母さま。今日、ここまで来られたのは、娘さんが心配だからですね」
「……当然でしょう」
「その心配は、本物だと思います。三十一年、育ててこられた。手放したくない気持ちも、よくわかります」
母親の肩が、ほんの少し、揺れた。否定されると思っていた言葉を、肯定された。その戸惑いだった。
「でも」
俺は、一拍、置いた。
「心配と、支配は、違います」
「……っ」
「『あなたのため』という言葉は、便利です。それを言われた人は、反論できなくなる。けれど──」
俺は、俯いている怜さんを、ちらりと見た。
「ご覧ください。娘さんは、お母さまの前で、息ができていない」
怜さんが、はっと、顔を上げた。
「これが、本当に、娘さんのためですか」
***
母親は、答えなかった。
握りしめていたハンドバッグの口金が、かちゃ、と小さく鳴った。
「私は……ただ、この子が、ちゃんと、幸せに」
「わかっています」
俺の声が、ふっと、ひとつだけ、やわらかくなった。
「心配は、もう、じゅうぶん、伝わりました」
そして、また、言い切った。
「ですから──今日は、ここで」
「……」
「娘さんを、どうするかは、娘さんが決めます。連れ戻すのも、留まるのも、お母さまが決めることでは、ありません。それは、もう、この人の権利です」
俺は、頭を下げた。丁寧に。けれど、退路を塞ぐように。
「お引き取りいただけますか。お車、お待たせしていますよね」
殴ってはいない。脅してもいない。土下座も、させていない。ただ、事実と、原理と、境界線を、一枚ずつ、畳んだだけだ。
裁くのは、俺ではない。法と、彼女自身の意思だ。俺はただ、ここが「彼女の家」であることを、思い出させただけ。
母親は、長いこと、黙っていた。それから、ゆっくりと、立ち上がった。
「……怜」
声が、来たときより、ずっと小さかった。
「気が、変わったら……電話、しなさい」
「……うん」
怜さんが、消え入りそうな声で、頷いた。
母親は、もう一度、俺を見た。今度は、値踏みの目では、なかった。何か、見たことのないものを見るような目だった。
そして、何も言わず、玄関を出ていった。雨の音に、車のドアが閉まる音が、ひとつ、混じった。
***
ドアが、閉まる。
俺は、その閉まったドアを、しばらく見ていた。それから、ふっと、肩の力を抜いた。
「……ふぃー」
長く、息を吐く。
久しぶりに、あの「顔」を出した。たったそれだけのことで、手のひらが、少し冷たくなっている。それを、悟られないように、握り直す。
そして、半呼吸、置いてから、振り返った。
「……怖かったですね」
いつもの、たれ目に戻して。
「温かいミルクティーを、淹れましょうか。牛乳をうんと入れた、甘いやつ」
***
怜さんは、ぽかんとしていた。
たった今、母親を玄関の外へ送り出した別人のような中年男と、目の前の、抜けた顔でミルクティーの相談をしている管理人とを、何度も、見比べている。
それから──。
くしゃ、と、顔が崩れた。
「……っ、あ……」
両手で顔を覆って、肩を震わせて、声を殺して、泣いた。三十一年分の、言えなかった「いやだ」が、堰を切ったように、こぼれていた。
俺は、何も言わなかった。ただ、台所に立って、ミルクティーを淹れた。
牛乳のトリプトファンは、人を安心させる。温めると、湯気といっしょに、やさしい香りが立つ。
泣いている人の横で、ミルクを温める。それだけのことが、ときに、どんな言葉よりも効く。
小鍋のなかで、あたためた牛乳の、蜜のように甘い香りが、ふつり、ふつりと、湯気になって立ちのぼる。喉が、ひとりでに、こくりと鳴りたくなる匂いだった。
だから、俺は、まだ気づいていなかった。リビングの入口に、いつのまにか、こちらを見ている四つの視線があったことに。
語尾が、消えた。いつものたれ目からすっと出た、別人のような一言。殴りも脅しもせず、事実と境界線だけを一枚ずつ畳んでいく“ただの管理人”に鳥肌が立ったら、【びっくり】を! この片鱗の続きは、ぜひブックマークで。




