↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
38/40

第3話 ここは、彼女の家です

「怜さん」


俺は、お盆を持って、リビングに入った。


「お母さま。お茶を、お持ちしました」


湯気の立つ湯呑みを、二つ、テーブルに置く。エプロンを、まだつけたまま。袖を、まくったまま。


母親は、俺を、はっきりと見上げた。


「あなた、管理人さんね。悪いけれど、これは、うちの家庭の問題なの。口を挟まないで」


「ええ」


俺は、頷いた。


「ですので、ひとつだけ、確認させてください」


そして、怜さんと母親のあいだに、さりげなく、一歩。立ち位置で、線を引いた。


視線は、外さない。声は、張らない。ただ──語尾を、言い切る。


普段の俺の喋りは、語尾が柔らかい。「〜かなあ」とか、「〜ですよね」とか。それが、消えた。


「ここは、彼女の家です」


母親の眉が、わずかに動いた。


「家、ですって? シェアハウスでしょう。仮の住まいよ。本当の家は、私たちのところ──」


「いいえ」


俺は、静かに、しかし、はっきりと、遮った。


「家賃を払って、自分の意思で借りている部屋は、その人の家です。法律でも、そうです。借りている人の同意なく、誰かを連れ出すことはできません。たとえ、ご家族でも」


「……」


「娘さんは、もう、自分の家賃を払う、大人です」


***


母親の口が、半分、開いた。


何か言い返そうとして、けれど、続く言葉が出てこなかった。


俺は、続けた。声を荒げない。脅さない。ただ、事実を、一枚ずつ、置いていく。


「お母さま。今日、ここまで来られたのは、娘さんが心配だからですね」


「……当然でしょう」


「その心配は、本物だと思います。三十一年、育ててこられた。手放したくない気持ちも、よくわかります」


母親の肩が、ほんの少し、揺れた。否定されると思っていた言葉を、肯定された。その戸惑いだった。


「でも」


俺は、一拍、置いた。


「心配と、支配は、違います」


「……っ」


「『あなたのため』という言葉は、便利です。それを言われた人は、反論できなくなる。けれど──」


俺は、俯いている怜さんを、ちらりと見た。


「ご覧ください。娘さんは、お母さまの前で、息ができていない」


怜さんが、はっと、顔を上げた。


「これが、本当に、娘さんのためですか」


***


母親は、答えなかった。


握りしめていたハンドバッグの口金が、かちゃ、と小さく鳴った。


「私は……ただ、この子が、ちゃんと、幸せに」


「わかっています」


俺の声が、ふっと、ひとつだけ、やわらかくなった。


「心配は、もう、じゅうぶん、伝わりました」


そして、また、言い切った。


「ですから──今日は、ここで」


「……」


「娘さんを、どうするかは、娘さんが決めます。連れ戻すのも、留まるのも、お母さまが決めることでは、ありません。それは、もう、この人の権利です」


俺は、頭を下げた。丁寧に。けれど、退路を塞ぐように。


「お引き取りいただけますか。お車、お待たせしていますよね」


殴ってはいない。脅してもいない。土下座も、させていない。ただ、事実と、原理と、境界線を、一枚ずつ、畳んだだけだ。


裁くのは、俺ではない。法と、彼女自身の意思だ。俺はただ、ここが「彼女の家」であることを、思い出させただけ。


母親は、長いこと、黙っていた。それから、ゆっくりと、立ち上がった。


「……怜」


声が、来たときより、ずっと小さかった。


「気が、変わったら……電話、しなさい」


「……うん」


怜さんが、消え入りそうな声で、頷いた。


母親は、もう一度、俺を見た。今度は、値踏みの目では、なかった。何か、見たことのないものを見るような目だった。


そして、何も言わず、玄関を出ていった。雨の音に、車のドアが閉まる音が、ひとつ、混じった。


***


ドアが、閉まる。


俺は、その閉まったドアを、しばらく見ていた。それから、ふっと、肩の力を抜いた。


「……ふぃー」


長く、息を吐く。


久しぶりに、あの「顔」を出した。たったそれだけのことで、手のひらが、少し冷たくなっている。それを、悟られないように、握り直す。


そして、半呼吸、置いてから、振り返った。


「……怖かったですね」


いつもの、たれ目に戻して。


「温かいミルクティーを、淹れましょうか。牛乳をうんと入れた、甘いやつ」


***


怜さんは、ぽかんとしていた。


たった今、母親を玄関の外へ送り出した別人のような中年男と、目の前の、抜けた顔でミルクティーの相談をしている管理人とを、何度も、見比べている。


それから──。


くしゃ、と、顔が崩れた。


「……っ、あ……」


両手で顔を覆って、肩を震わせて、声を殺して、泣いた。三十一年分の、言えなかった「いやだ」が、堰を切ったように、こぼれていた。


俺は、何も言わなかった。ただ、台所に立って、ミルクティーを淹れた。


牛乳のトリプトファンは、人を安心させる。温めると、湯気といっしょに、やさしい香りが立つ。


泣いている人の横で、ミルクを温める。それだけのことが、ときに、どんな言葉よりも効く。


小鍋のなかで、あたためた牛乳の、蜜のように甘い香りが、ふつり、ふつりと、湯気になって立ちのぼる。喉が、ひとりでに、こくりと鳴りたくなる匂いだった。


だから、俺は、まだ気づいていなかった。リビングの入口に、いつのまにか、こちらを見ている四つの視線があったことに。


語尾が、消えた。いつものたれ目からすっと出た、別人のような一言。殴りも脅しもせず、事実と境界線だけを一枚ずつ畳んでいく“ただの管理人”に鳥肌が立ったら、【びっくり】を! この片鱗の続きは、ぜひブックマークで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
カッコイイ大人だな
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。