第2話 あなたのため、という呪い
リビングに戻ると、小麦が、特等席のベッドから、首をもたげていた。
「ふぁ」
あくびをひとつして、のそりと起き上がる。そして、俺の足元に来て、膝のあたりに、大きな頭をぐいと押しつけてきた。
「お前も、気づいてたか」
金色の頭を、撫でた。
この犬は、家のなかの空気が冷えると、それを誰よりも早く察する。誰かが泣いている夜には、その部屋のドアの前に、黙って伏せていることがある。
「明日、来るらしいよ」
小麦は、俺を見上げて、きゅう、と鼻を鳴らした。
その鼻先を、しばらく撫でてやった。この犬は、答えを返さない。けれど、答えを返さないことが、いちばんありがたい夜が、ある。
俺は、ふと、登美さんのことを思い出した。
行き倒れていた俺を拾って、白粥を一杯、黙って出してくれた人。何も詮索せず、ただ「お帰り」と言ってくれた人。あの人なら、こういう夜、どうしただろう。
たぶん、何もしない。
ただ、温かいものを作って、灯りを点けて、待っているだろう。帰ってこられる場所を、消さないために。それが、この家の、役目だ。
明日、怜さんの母親が、この常夜灯に来る。実家に、連れ戻すために。
俺は、台所の灯りだけを残して、ほかを消した。柱時計の振り子が、こつ、こつ、と鳴っている。
明日のために、するべきことは、特にない。ただ、温かいものを、用意して、待つだけだ。
***
寝る前に、もう一度、二階の様子を窺った。
怜さんの部屋の前の盆は、空になっていた。椀の底に、おじやが、ひとくち分だけ、残してあった。全部は、食べられなかったのだろう。それでも、ほとんどを、口にしてくれた。
俺は、その椀を、そっと下げた。
ひとくち分の食べ残しは、責めるものじゃない。ほんの少しでも、喉を通った。それでいい。明日、また、温かいものを出せばいい。
階段を下りながら、ふと、思った。
「あなたのため」という言葉を、人は、いったい、何度、誰かを縛るために使うのだろう。
その言葉には、覚えがあった。ずっと昔、俺自身が、何度も浴びせられた言葉だ。
胸の奥の、古い場所が、ことりと音を立てた。けれど俺は、それに蓋をして、灯りを消した。
明日のことは、明日でいい。今は、ただ、怜さんが、少しでも眠れますように。
そう願いながら、俺は、目を閉じた。
***
「ここは、彼女の家です」
その声は、大きくなかった。むしろ、いつもより、ずっと低かった。だが、玄関の三和土に立っていた人の足が、その一言で、ぴたりと止まった。
少し、時間を戻す。
***
その日は、朝から、雨だった。
冷たい、冬のはじまりの雨。怜さんは、会社を休んだ。出社できる状態ではなかったからだ。
朝食の席に、彼女は来なかった。下りてきたのは、昼前。化粧をして、髪をきっちりまとめ、仕事着のパンツスーツを着ていた。
家にいるのに、鎧を着ていた。
「管理人さん。今日、母が来ます。お騒がせして、すみません」
声は、落ち着いていた。落ち着かせようと、必死だった。
「私が、ちゃんと話します。だから、皆さんには、迷惑かけません」
「迷惑だなんて」
「もし……もし、母が、何か失礼なことを言ったら」
そこで、声が、ほんの少し、揺れた。
「ごめんなさい。先に、謝っておきます」
俺は、エプロンの紐を、結び直した。
「怜さん。先に謝ることは、何もないですよ」
そう言って、台所に立った。何を作るかは、もう決めていた。
***
チャイムが鳴ったのは、午後二時だった。
ドアを開けると、品のいい女性が立っていた。六十前後だろうか。きちんとしたコートに、上等なスカーフ。髪は美容院で整えたばかりのように、一筋の乱れもない。背筋が、まっすぐ伸びている。
一目で、わかった。
この人は、悪人ではない。ただ、自分が正しいと、微塵も疑っていない人だ。それは時に、悪人よりも、人を追い詰める。
「遠野怜の、母です。娘がお世話になっております」
丁寧な、けれど一切の隙のない、挨拶だった。
その後ろで、怜さんが、すっと小さくなった。三十一歳のベテランOLが、母親の前で、十代の少女のように、肩をすぼめていた。
「どうぞ、お上がりください」
俺は、二人をリビングに通した。
小麦が、特等席から、じっと様子を見ていた。いつもなら来客に尻尾を振る犬が、その日は、動かなかった。ただ、怜さんの足元に、そっと寄り添った。
***
リビングのテーブルで、話は、すぐに始まった。
「怜。荷物は、まとめてあるの? 車を待たせてあるのよ」
「お母さん、私……」
「いいから。もう決めたでしょう。こんな、得体の知れない男の人がいるシェアハウスなんて。あなたみたいな立場のある子が、住むところじゃないわ」
母親は、ちらりと俺を見た。値踏みする目だった。
「実家に戻れば、お見合いの話もあるの。三十一でしょう。もう、後がないのよ。仕事ばかりして、あなた、このまま一人で歳を取るつもり? それは、あなたのためにならない」
「……」
「全部、あなたのためを思って言ってるの。お母さん、心配なのよ。あなたが、こんなところで、すり減っていくのが」
怜さんは、俯いて、何も言えなかった。膝の上で、両手を、固く握りしめていた。爪が、手の甲に食い込むくらい、固く。
反論したいのに、できない。三十年、染みついたものは、簡単にはほどけない。「あなたのため」の六文字の前で、彼女は、いつも無力になる。
俺は、台所で、湯を沸かしていた。その「あなたのため」が、繰り返されるたびに。俺のなかで、何かが、すっと、静かになっていった。
「あなたのため」——その四文字が、誰かを縛る鎖にもなる。悪人ではないのに人を追い詰めるあの立ち姿にぞくりとしたら、【びっくり】か【いいね】を! 台所で静かになっていく管理人さんの気配が気になったら、ブックマークで次話へ。




