第1話 迎えに来た、過去
その夜、怜さんは、ごはんを残した。常夜灯に来てから、初めてのことだった。
きっかけは、一本の電話だったらしい。
俺がそれを知ったのは、夕方のことだ。仕事帰りの怜さんが、玄関で靴を脱ぐより先に、廊下にしゃがみ込んでいた。トートバッグを膝に抱えて、スマホの画面を、じっと見ている。
「お帰りなさい」
声をかけても、顔を上げなかった。
「……ただいま」
返ってきた声が、いつもの早口の敬語ではなかった。ずっと小さくて、芯が抜けていた。
俺は、何も聞かなかった。聞かれたくない夜は、聞かないでいるのが、いちばんいい。ただ、台所に戻って、火を見ていた。
***
怜さんは、強い人だ。
広告代理店のチーフで、アートディレクター。部下を束ね、無茶なスケジュールをさばき、クライアントの「なんか違う」を、徹夜で形にしてきた人。常夜灯でいちばん、鎧が分厚い人だった。
その鎧が、ある一点でだけ、紙のように薄くなる。
母親の前で。
外でどれだけ完璧でいても、家のなかには、ほどけない結び目がある。怜さんにとって、それは、母親だった。
俺は、湯呑みを拭きながら、廊下のほうに、耳を澄ませていた。しばらくして、怜さんの、押し殺した声が、切れぎれに聞こえてきた。
「……うん。ごめんなさい。私が、悪かった……ううん、ちゃんとする。ちゃんと、するから……」
謝っていた。何に対してかも、わからないまま。ただ、ひたすら、謝っていた。
いつもの早口の敬語は、どこにもなかった。電話の向こうの相手に、許しを乞う、小さな子どもの声だった。
俺は、火を、少し弱めた。
煮立てると、出汁は濁る。人の心も、たぶん、同じだ。煮立てる前に、火を引く。沸かさない、その手前で、止めてやる。
***
その夜の献立は、ぶり大根だった。
寒くなってきたから、じっくり煮込むものがいい。大根は米のとぎ汁で下茹でして、苦みを抜いてある。ぶりはアラを霜降りにして、生臭さを落とす。骨と皮から、ゼラチンと旨味が、ことことと出汁に溶けていく。
冬の労りは、手間のかかるものに限る。時間をかけて煮たものは、食べる人に「待っていた」と伝わる。
大根に、出汁が、しみている。箸を入れると、すっと割れて、断面から湯気が立つ。
いつもの怜さんなら、これに日本酒を一合、つけてほしいと言う。けれどその夜は、おちょこを出さなかった。
「……いただきます」
そう言って箸を取った怜さんは、大根をひとくち、口に運んで、それきり、止まってしまった。噛んでいるのに、飲み込めない、という顔だった。
「美味しい、です。ほんとに。でも……ごめんなさい。今日、入らなくて」
箸を置いた手が、わずかに震えていた。
「すみません。せっかく、作ってもらったのに」
「いいんですよ」
俺は、皿をそっと引いた。
「無理に食べるもんじゃない。ラップして取っておきます。明日のほうが、味が染みて美味しいので」
「……明日」
怜さんは、その言葉を、空っぽの目で繰り返した。明日が、来てほしくない、という顔をしていた。
***
事情を聞いたのは、まひるさんからだった。
風呂上がりに、こっそり台所まで来て、声をひそめて教えてくれた。怜さんと同じフロアだから、壁越しに、電話の声が聞こえてしまったらしい。
「怜さんのお母さんが……明日、ここに来るって」
「来る」
「実家に、連れ戻すって。怜さん、ずっと、電話で謝ってて。『私が悪かった』『ちゃんとする』って。何回も、何回も」
まひるさんは、自分のことのように、眉を寄せた。
「怜さん、あんなに仕事できる人なのに。電話のときだけ、別人みたいになるんです。小さい子みたいに、なっちゃって」
俺は、湯呑みを拭く手を、止めた。
外で隙を見せない人ほど、その結び目だけは、何十年も、固いままなのだ。子どものころに結ばれた糸は、大人になっても、自分の指では、ほどけない。
「ありがとう、まひるさん。教えてくれて」
「あの……管理人さん」
まひるさんが、不安げに、上目遣いに俺を見た。
「怜さん、連れていかれちゃうんですか」
俺は、少しだけ笑った。
「それは、怜さんが決めることですよ。誰かに、決められることじゃない」
***
夜が更けて、家が静かになってから。
俺は、土鍋に湯を沸かした。
ぐつぐつ煮るものではなく、ただ、温める。胃の弱った夜に、いちばんやさしいものを。卵を一個、溶いて、出汁にそっと流す。とろりとした、玉子のおじや。米はやわらかく、塩はごく控えめに。
弱った体は、味の濃いものを受けつけない。だから、出汁の旨味だけで、満たしてやる。
湯気が、ふわりと立つ。
その匂いを連れて、俺は二階の廊下の隅、怜さんの部屋のドアの前に、小さな盆を置いた。おじやの椀と、れんげと、梅干しをひとつ。それだけ。
ノックは、しなかった。声も、かけなかった。ただ、ドアの隙間から漏れる灯りに向かって、聞こえるか聞こえないかの声で、ひとこと。
「……無理しなくて、いいですよ。ここでは」
灯りは、消えなかった。
しばらくして、ドアの向こうで、椀を取る、かすかな物音がした。それを確かめてから、俺は、階段を下りた。
れんげが椀にあたる、こつ、という控えめな音が、灯りの隙間から、細く漏れてくる。出汁の匂いだけが、まだ、廊下にうっすらと残っていた。
明日、この家に、あの人が来る。──それが、俺にとっても、思っていた以上に長い夜の、始まりになるとは。このときの俺は、まだ知らないでいた。
いつも鎧の分厚いあの人が、電話の向こうで小さな子どもの声になってしまう夜。廊下の隅にそっと置かれた、玉子のおじやの湯気にじんときたら、【泣ける】か【にこにこ】を! この家に何が来るのか、続きはブックマークで一緒に見届けてください。




