↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
36/40

第1話 迎えに来た、過去

その夜、怜さんは、ごはんを残した。常夜灯(じょうやとう)に来てから、初めてのことだった。


きっかけは、一本の電話だったらしい。


俺がそれを知ったのは、夕方のことだ。仕事帰りの怜さんが、玄関で靴を脱ぐより先に、廊下にしゃがみ込んでいた。トートバッグを膝に抱えて、スマホの画面を、じっと見ている。


「お帰りなさい」


声をかけても、顔を上げなかった。


「……ただいま」


返ってきた声が、いつもの早口の敬語ではなかった。ずっと小さくて、芯が抜けていた。


俺は、何も聞かなかった。聞かれたくない夜は、聞かないでいるのが、いちばんいい。ただ、台所に戻って、火を見ていた。


***


怜さんは、強い人だ。


広告代理店のチーフで、アートディレクター。部下を束ね、無茶なスケジュールをさばき、クライアントの「なんか違う」を、徹夜で形にしてきた人。常夜灯でいちばん、鎧が分厚い人だった。


その鎧が、ある一点でだけ、紙のように薄くなる。


母親の前で。


外でどれだけ完璧でいても、家のなかには、ほどけない結び目がある。怜さんにとって、それは、母親だった。


俺は、湯呑みを拭きながら、廊下のほうに、耳を澄ませていた。しばらくして、怜さんの、押し殺した声が、切れぎれに聞こえてきた。


「……うん。ごめんなさい。私が、悪かった……ううん、ちゃんとする。ちゃんと、するから……」


謝っていた。何に対してかも、わからないまま。ただ、ひたすら、謝っていた。


いつもの早口の敬語は、どこにもなかった。電話の向こうの相手に、許しを乞う、小さな子どもの声だった。


俺は、火を、少し弱めた。


煮立てると、出汁は濁る。人の心も、たぶん、同じだ。煮立てる前に、火を引く。沸かさない、その手前で、止めてやる。


***


その夜の献立は、ぶり大根だった。


寒くなってきたから、じっくり煮込むものがいい。大根は米のとぎ汁で下茹でして、苦みを抜いてある。ぶりはアラを霜降りにして、生臭さを落とす。骨と皮から、ゼラチンと旨味が、ことことと出汁に溶けていく。


冬の労りは、手間のかかるものに限る。時間をかけて煮たものは、食べる人に「待っていた」と伝わる。


大根に、出汁が、しみている。箸を入れると、すっと割れて、断面から湯気が立つ。


いつもの怜さんなら、これに日本酒を一合、つけてほしいと言う。けれどその夜は、おちょこを出さなかった。


「……いただきます」


そう言って箸を取った怜さんは、大根をひとくち、口に運んで、それきり、止まってしまった。噛んでいるのに、飲み込めない、という顔だった。


「美味しい、です。ほんとに。でも……ごめんなさい。今日、入らなくて」


箸を置いた手が、わずかに震えていた。


「すみません。せっかく、作ってもらったのに」


「いいんですよ」


俺は、皿をそっと引いた。


「無理に食べるもんじゃない。ラップして取っておきます。明日のほうが、味が染みて美味しいので」


「……明日」


怜さんは、その言葉を、空っぽの目で繰り返した。明日が、来てほしくない、という顔をしていた。


***


事情を聞いたのは、まひるさんからだった。


風呂上がりに、こっそり台所まで来て、声をひそめて教えてくれた。怜さんと同じフロアだから、壁越しに、電話の声が聞こえてしまったらしい。


「怜さんのお母さんが……明日、ここに来るって」


「来る」


「実家に、連れ戻すって。怜さん、ずっと、電話で謝ってて。『私が悪かった』『ちゃんとする』って。何回も、何回も」


まひるさんは、自分のことのように、眉を寄せた。


「怜さん、あんなに仕事できる人なのに。電話のときだけ、別人みたいになるんです。小さい子みたいに、なっちゃって」


俺は、湯呑みを拭く手を、止めた。


外で隙を見せない人ほど、その結び目だけは、何十年も、固いままなのだ。子どものころに結ばれた糸は、大人になっても、自分の指では、ほどけない。


「ありがとう、まひるさん。教えてくれて」


「あの……管理人さん」


まひるさんが、不安げに、上目遣いに俺を見た。


「怜さん、連れていかれちゃうんですか」


俺は、少しだけ笑った。


「それは、怜さんが決めることですよ。誰かに、決められることじゃない」


***


夜が更けて、家が静かになってから。


俺は、土鍋に湯を沸かした。


ぐつぐつ煮るものではなく、ただ、温める。胃の弱った夜に、いちばんやさしいものを。卵を一個、溶いて、出汁にそっと流す。とろりとした、玉子のおじや。米はやわらかく、塩はごく控えめに。


弱った体は、味の濃いものを受けつけない。だから、出汁の旨味だけで、満たしてやる。


湯気が、ふわりと立つ。


その匂いを連れて、俺は二階の廊下の隅、怜さんの部屋のドアの前に、小さな盆を置いた。おじやの椀と、れんげと、梅干しをひとつ。それだけ。


ノックは、しなかった。声も、かけなかった。ただ、ドアの隙間から漏れる灯りに向かって、聞こえるか聞こえないかの声で、ひとこと。


「……無理しなくて、いいですよ。ここでは」


灯りは、消えなかった。


しばらくして、ドアの向こうで、椀を取る、かすかな物音がした。それを確かめてから、俺は、階段を下りた。


れんげが椀にあたる、こつ、という控えめな音が、灯りの隙間から、細く漏れてくる。出汁の匂いだけが、まだ、廊下にうっすらと残っていた。


明日、この家に、あの人が来る。──それが、俺にとっても、思っていた以上に長い夜の、始まりになるとは。このときの俺は、まだ知らないでいた。


いつも鎧の分厚いあの人が、電話の向こうで小さな子どもの声になってしまう夜。廊下の隅にそっと置かれた、玉子のおじやの湯気にじんときたら、【泣ける】か【にこにこ】を! この家に何が来るのか、続きはブックマークで一緒に見届けてください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。