第3話 変なの、この家
「……おはよう、ございます」
最初に降りてきたのは、七瀬さんだった。昨夜とは別人みたいに、髪を巻いて、きちんとしたオフィスの服装で。新人OLの、精一杯の「ちゃんとした自分」だ。
でも、目元がまだ少し赤い。たぶん、朝から緊張しているのだろう。
「おはようございます。朝ごはん、食べていけますか」
「あ……でも、わたし、いつも食べないで……」
「一口だけでも。これ、食べると頭が回りますよ」
俺は、温かい味噌汁の椀を、そっと差し出した。
七瀬さんは、おずおずとそれを受け取って、すすった。ふう、と。肩から、力が抜けるのがわかった。
「……あったかい」
それから、ぽつりと、独り言のように零した。
「……今日、また、電話応対で怒られるんだろうな」
俺は、何も言わなかった。ただ、ご飯を軽くよそって、彼女の前に置いた。
口を挟まないのは、登美さんから教わった、というより──昔の仕事で、自然と身についた癖だった。人は、答えが欲しいんじゃない。ただ、聞いてほしいだけのことが、多い。
「いってらっしゃい。気をつけて」
七瀬さんは、味噌汁を飲み干して、ぺこりと頭を下げた。少しだけ、背筋が伸びていた。
「味噌は、発酵食品ですからね。ねぎの香りの成分も、体にいいんですよ」
そういう小さなうんちくを、俺はつい喋ってしまう。住人にとっては、どうでもいい話だろうに。
でも七瀬さんは、味噌汁を両手で包んだまま、ふっと笑ってくれた。その笑顔を見られただけで、俺は今日の分の働きを終えた気分になった。
***
次に降りてきたのは、学生の小田切さんだった。スマホを片手に、画面を見ながら、ソファにどさりと座る。
「ねー、おじさん」
俺のことを、彼女はもう「おじさん」と呼ぶことに決めたらしい。それはそれで、まあ、正しい。
「はい、なんでしょう」
「これ。SNSでバズってる『追いチーズの背徳トースト』ってやつ。めっちゃ美味しそうじゃない? 食べたいなー」
彼女はスマホの画面を、俺のほうに向けようとした。俺は、新聞をめくりながら、画面は見ずに答えた。
「へえ。チーズと、はちみつですか」
「え、なんでわかったの」
「におってきそうな音でしたから」
俺は立ち上がって、台所へ向かった。
食パンに、とろけるチーズをたっぷり。少しだけバターも。トースターでこんがり焼けば、メイラード反応で、キツネ色の焦げ目と香ばしい匂いが立つ。仕上げに、温めたはちみつを、つうっと垂らす。
「どうぞ。家の材料で作るほうが、たぶん美味しいですよ」
ことん、と。小田切さんの目の前に、湯気の立つトーストを置いた。とろりと溶けたチーズの上で、はちみつが、つやつやと光っている。
小田切さんは、スマホを置いた。熱々のトーストを一口齧って──目を見開いた。
「……っ、なにこれ。お店のやつより、ぜんぜん美味しいんだけど」
「チーズの旨味と、はちみつの甘みが、焼くと立つんです。温かいうちが、いちばん美味しい」
小田切さんは、もう一口齧って、それから、ちらっと俺を見上げた。
「……おじさん、なんなの」
「ただの管理人ですよ」
***
リビングには、いくつかの「ちいさなルール」がある。俺は、住人たちに、ぽつぽつとそれを説明した。
二階は、女性のみなさんの居住エリア。男子禁制──つまり、俺は二階には上がらない。俺のテリトリーは、一階の台所と、リビングの奥の管理人室だけ。
「俺は、台所の人間ですから。安心してください」
それから、リビングの壁の黒板を指した。
「ここに、夕飯が要るか要らないか、書いておいてくれると助かります。チョークで、ひと言でいいので」
「えっ、アプリとかLINEじゃなくて?」
小田切さんが、目を丸くした。
「俺、スマホ、持ってないんですよ」
四人が、ぴたりと止まった。
「……は?」
ちょうど降りてきた遠野さんが、思わず、という顔で声を出した。
「持ってない、って。連絡、どうやって……」
「管理人室の、固定電話だけです。あの黒いやつ」
「えっ、嘘でしょ」
「通知に追われる生活は、前の職場で、もう終わりにしましてね」
俺は、できるだけ軽く言った。
本当は──スマホの通知音が鳴るだけで、今でも心臓がばくばくして、冷や汗が出る。前の仕事は、それくらい、心と体を擦り減らした。でも、そんな深刻な話は、朝の食卓には似合わない。
「この家と、みなさんの声が聞こえる距離があれば、俺はもう十分なんです」
***
「でも──」
漫画家の真壁さんが、ぼそりと口を開いた。昨夜、ほとんど喋らなかった人だ。締切前なのか、ひどく眠そうな目をしている。
「あたし、在宅で仕事してて。ネットがないと、死ぬんですけど」
「ああ、それは大丈夫です」
俺は頷いた。
「みなさんが使うWi-Fiは、いちばん速いやつを業者に頼んで、入れてあります。動画も、オンラインの作業も、引っかからないはずです」
真壁さんが、きょとんとした。
「……管理人さん、スマホ持ってないのに?」
「俺は要らないんです。でも、女の子たちが不便なのは、違うでしょう」
「……自分はスマホ捨ててるのに、住人には最速のWi-Fi、ってこと?」
「ええ。歪ですよね、我ながら」
俺は、頭を掻いた。
真壁さんは、しばらく、俺の顔をじっと見ていた。職業柄なのか、人をよく観察する子だ。それから、何かを書き留めるみたいに、ふっと小さく頷いた。
「……変なの、この家」
そう言いながら、彼女の口元は、少しだけほどけていた。
変なの、で、いい。俺は、そう思った。この家の朝が、こんなふうに少しずつほどけていくのを、ただ、嬉しく眺めていた。
──その穏やかな数日が、ある夕方の来客で、思いがけずざわめくことになるとは。このときの俺は、まだ知らないでいた。
SNSでバズった背徳トーストを「におってきそうな音でしたから」と画面も見ずに上位互換で作ってしまう――スマホを持たない管理人さんのズレっぷりにクスッときたら、【笑える】を! 「変なの、この家」がほどけていく朝を、ブックマークで見届けてください。




