第2話 余り物の、深夜ごはん
その日から、俺は女性専用シェアハウス『常夜灯』の、住み込みの管理人になった。登美さんが遺してくれた、大正モダンの古い洋館。二階には、疲れた顔の住人が四人。まだ誰も、俺に気を許してはいない。せめて腹だけでも温めてもらおうと、俺は台所に立った。
冷蔵庫の中身は、心もとなかった。しなびかけた大根、卵が数個、豆腐、油揚げ、味噌。あとは、登美さんが遺した昆布とかつお節。
それで十分だった。
鍋に水と昆布を沈め、弱火にかける。沸く直前に昆布を引き上げ、かつお節を一掴み。じわりと、琥珀色の出汁が立ちのぼった。
──昆布とかつおを、一対一。
そうすると旨味は、ひとりずつの何倍にも跳ねる。理屈は知っているけれど、いちいち数えてやっているわけじゃない。俺の手は、頭で考えるより先に、動いていた。
味噌を溶けば、ことことと湯気が踊り、台所いっぱいに、香ばしくも優しい匂いが広がっていく。
大根は薄く切って、出汁でくたくたに。卵は出汁を含ませて、菜箸でくるくると巻く。じゅう、と卵が鳴いて、ふるりと半熟のだし巻きが立ち上がる。豆腐は薬味をのせて、冷奴に。刻んだねぎと、おろし生姜を、ちょこんと。油揚げは炙って、香ばしく。
余り物だけで、一汁三菜。
湯気の立つ盆を、俺は食卓へ運んだ。
「お待たせしました」
四人は、まだ少し警戒した顔のまま、それでも、ふらふらと食卓に着いた。香りには、抗えなかったらしい。
味噌汁の椀から立つ湯気が、疲れた四つの顔を、ほのかに照らした。
「……いただきます」
誰かが、小さく手を合わせた。
七瀬さんが、おそるおそる、だし巻き卵を口に運ぶ。
箸が、止まった。
「……」
彼女の目が、みるみる潤んでいく。
「……美味しい」
ぽつり、と。本人も気づかないような、小さな声で、そう零れた。
それを合図に、四人の箸が、止まらなくなった。警戒した顔のまま。でも、夢中で。がつがつと、けれど大事そうに。
小柄な七瀬さんは、だし巻き卵を、もう一切れ、急いで頬張った。学生の小田切さんは、スマホを置いたまま、味噌汁を両手で抱えてすすっている。漫画家の真壁さんは、ご飯を掻き込みながら、ふと、何かを言いかけて、やめた。
遠野さんは、冷奴をひと口食べて、箸を持つ手を、止めた。俯いた肩が、ほんの少し、震えていた。
泣いているのかもしれない、と思った。でも、俺は気づかないふりをした。疲れ切った大人が、温かいものを食べて泣くのは、別に、恥ずかしいことじゃない。
俺は、その光景を見ていた。胸の奥が、じんわりと温かかった。
──ああ、登美さん。
これだ。俺にできるのは、たぶん、これだけだ。
遠野さんが、ふと顔を上げた。仕事で擦り切れた目が、少しだけ、子どもみたいに無防備になっていた。
俺は、できるだけ何でもないことのように、言った。
「おかえりなさい。大変な一日でしたね」
「……」
「ここには、いつでも温かいご飯がありますから」
四人が、それぞれに、はっと息を呑むのがわかった。誰も、何も言わなかった。
ただ、味噌汁をすする音と、小麦が幸せそうに尻尾を振る音だけが、夜の常夜灯に、静かに満ちていた。
***
食べ終えた頃には、みんな、少しだけ顔つきがやわらいでいた。それでも、まだ俺を「信頼した」わけではないだろう。当然だ。一晩で、人の警戒はほどけない。
四人が二階へ上がっていく後ろ姿に、俺は声をかけた。
「あの。明日も、ご飯ありますから」
階段の途中で、遠野さんが、ちらりと振り返った。何か言いかけて、やめて、小さく頷いて、行ってしまった。
俺は空いた食器を流しに運びながら、ひとり、笑った。
明日も、ご飯がある。たったそれだけのことが、こんなにも、生きる理由になるなんて。
足元で、小麦が「わふ」と欠伸をした。
「お前も、おやすみ」
固定電話の黒い影が、月明かりのなかで、静かに佇んでいた。
***
朝は、味噌汁の匂いから始まる。
俺は昔から、夜明け前に目が覚める。誰に頼まれたわけでもないのに、台所に立ってしまう。
具沢山の味噌汁を、ことことと。豆腐、わかめ、根菜、油揚げ。湯気が、まだ薄暗い台所にゆらりと立つ。鮭をこんがり焼いて、だし巻き卵を巻いて、ご飯を炊く。
足元では、小麦が「クーン」と鼻を鳴らして、期待のこもった目で俺を見上げている。
「お前のは、これな」
犬用の、無添加のおやつ。さつまいもを低温でじっくり焼いて、自然な甘みを引き出したものだ。小麦は尻尾で床を打って、それを大事そうに齧った。
一人と一匹の、静かな朝。そこへ、ぱたぱたと足音が降りてきた。
警戒していた四人が、だし巻き卵ひと切れで「……美味しい」とこぼしてしまう。冷えた心にじんわり出汁が染みる胃袋敗北の夜に、ほろりときたら【にこにこ】か【泣ける】を! 「明日も、ご飯ありますから」の続きは、ブックマークに入れておいてくださいませ。




