第1話 おかえりなさい、ご飯にしましょうか
「時代遅れのオッサンに、もう居場所はないんですよ」
そう言われたのは、その日の昼下がりだった。倉庫の片隅、油の匂いの染みた事務机で、若い所長が申し訳なさそうに、けれど淡々と紙を差し出した。
来月から、棚の管理は全部アプリに切り替わる。スマホで在庫を撮れば、AIが秒で数えてくれる。だから、俺の仕事はもう要らない。
『柏木周殿 雇用契約満了のお知らせ』
四年近く、誰かに必要とされたくて選んだ、最後の居場所だった。俺はその紙を、丁寧に二つに折って、鞄に仕舞った。
──そういう時代なんだよなあ。
腹も立たなかった。ただ、足の裏から少しずつ体温が抜けていくような、静かな心細さがあった。
四十二歳。手に職もない、家庭もない、スマホひとつ持っていない男。俺みたいなのを、世間は「オッサン」と呼ぶのだろう。その通りだ、と思った。
電車にも乗らず、ずいぶん長い距離を歩いて帰った。帰る、と言っても、行き先は仮の住まいだ。恩人の遺した、古い洋館の一室。
***
常夜灯。
そう書かれた木の表札が、夕闇のなかでぼうっと白く浮かんでいた。
大正の頃に建てられたという和洋折衷の屋敷。蔦の絡んだレンガ、軋む廊下、暖炉のあるリビング。ここはかつて、吉永登美さんという老婦人が、傷ついた女の人たちを匿うために営んでいた、女性専用のシェアハウスだった。
行き倒れていた俺を、彼女だけが拾ってくれた。何も訊かず、ただ温かい白粥を一杯、ことりと出してくれた人。
雨の降る夜だった。公園のベンチで動けなくなっていた俺に、登美さんは傘も差さずに近づいてきて、こう言った。
「あら、お腹がすいてるのね。顔に書いてあるわよ」
連れて帰られて、出されたのは、何の飾りもない白粥だった。塩がほんの少し。それだけ。
でも、ひと匙すすった瞬間、俺は声を上げて泣いた。
誰かを儲けさせるためでも、誰かを感心させるためでもない。ただ、目の前の命を繋ぐためだけの一杯。そんな料理を、俺はもう、ずっと忘れていた。
その登美さんが亡くなって、半年が経っていた。俺はこの家と、彼女の愛犬を引き継いだだけで、管理人らしいことは何ひとつできていなかった。
玄関を開けると、金色の毛玉が飛んできた。
「ただいま、小麦」
小麦。登美さんの遺したゴールデンレトリバーだ。ぶんぶん振れる尻尾に顔をはたかれ、思わず頬がゆるむ。
こいつだけは、俺をオッサン扱いしない。
***
管理人室に戻って、俺はようやく、ずっと開けられずにいた段ボール箱の前に座った。登美さんの、遺品の箱。
開けるのが怖くて、半年間、押し入れの奥に押し込んだままだった。彼女の字を見たら、もう本当に「終わり」になってしまう気がして。
でも──もう、後がない。
ふっと息を吐いて、ガムテープを剥がした。古い写真。色褪せた割烹着。小麦の子犬の頃の首輪。
そして、一通の手紙があった。宛名は、俺の名だった。
『周さんへ』
震える指で、便箋を開いた。
『あなたは、自分のことを"終わった人間"だと思っているでしょう。
でもね、わたしは知っています。あなたが、人の空腹と寂しさに、誰よりも早く気づける人だということを。
完璧なコンシェルジュじゃなくていいの。
傷ついた女の子たちの夜を照らす、ただの"ご飯が上手なおじさん"になりなさい。
それが、あなたにしかできない仕事だから』
──ああ。
気づいたら、便箋に染みが落ちていた。ずっと、必要とされたかった。誰かの役に立ちたかった。
その願いを、登美さんはとうに見抜いて、ちゃんと、仕事を遺してくれていた。
俺は手の甲で乱暴に目元を拭って、立ち上がった。管理人室の隅に、線の抜かれたままの黒い固定電話があった。レトロな黒電話風の、この家でただ一つの通信手段。
俺はその線を拾い、壁の差込口へ、ゆっくりと差し込んだ。
カチャリ。
小さな音がして、もう使われないはずだった電話が、世界と繋がった。
『この家の住人のためだけに、もう一度』
そう、心のなかで呟いた。
***
その夜は、誰の帰りも遅かった。この家には、四人の女性が暮らしている。みんな、外で精一杯戦って、ここに帰ってくる。
時計が深夜に近づいた頃、玄関がそっと開いた。最初に帰ってきたのは、スーツ姿の長身の女性だった。遠野さん、と表札で見た名だ。広告代理店に勤めているらしい。
帰るなり玄関で靴を脱ぎ散らかし、リビングのソファに倒れ込んだ。
「……お、お疲れさまです」
俺が声をかけると、彼女はびくっと身を起こした。
「……あなた、誰」
警戒した、低い声。
そうだ。住人にとって、俺はまだ「男の管理人」でしかない。女性ばかりのこの家に、知らないおじさんがエプロンを着けて立っている。怖いに決まっている。
続いて、若い子が三人、ぱらぱらと帰ってきた。化粧の崩れた、新人らしき小柄な子。七瀬さん。スマホを眺めながら入ってきた、今風の学生の子。小田切さん。そして、髪をぼさぼさに引っ詰めた、目の下にクマの濃い女性。真壁さん。漫画家だと聞いた。
四人とも、俺を見て一様に固まった。
「……男の人が、管理人……?」
七瀬さんが、ちいさく身を引く。
無理もない。俺は両手を見せるように下げて、できるだけ穏やかに言った。
「驚かせてすみません。前の管理人さん──登美さんに、ここを託された者です。怪しい者じゃ、ないつもりなんですが……まあ、見た目は怪しいですよね」
自虐に、誰も笑わなかった。四人の目は、まだ硬い。
その時、足元で小麦が「くぅん」と鼻を鳴らして、俺の脚にぴたりと寄り添った。ヘソを天に向けて、ころんと寝転がる。
──こいつ、警戒のかけらもないな。
その能天気さに、張り詰めた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
「あの。みなさん、夕飯は」
俺は訊いた。
四人とも、答えなかった。たぶん、まだ食べていない。こんな時間まで、誰も。
俺は台所へ戻りながら、言った。
「余り物しかありませんけど。すぐ、できますから」
やがて、鍋の蓋の隙間から、白い湯気が細く立ちのぼった。出汁の匂いが、廊下のほうまで、そっと流れていく。
四人は、まだ玄関のあたりで、警戒した顔のまま動かない。それでも──そのうちの誰かの喉が、こくり、と小さく鳴った気がした。
「時代遅れのオッサンは要らない」と切られた男が、恩人の遺した女性専用シェアハウスで、埃をかぶった固定電話の線をカチャリと挿し直す――その静かな覚悟に胸が熱くなったら、【いいね】か【泣ける】を! 湯気の立ちのぼる第一夜の続きは、ブックマークで一緒に。




