第3話 誰もいない、リビング
その日の夕方。
リビングに、怜さんが帰ってきた。珍しく、定時に近い時間だった。
「ただいま……って、誰もいないと、なんか変な感じね」
ソファに鞄を投げて、怜さんが部屋を見回す。いつもなら、まひるさんが帰宅報告で騒いで、ゆめちゃんがスマホ片手にソファを占領しているはずの時間だ。それがない。
「お盆ですからね。賑やかなのが、二人ばかり減ると」
「ね。……静かすぎて、落ち着かない」
怜さんが、苦笑した。
台所に立った俺は、今日は精進料理を作っていた。お盆だから、というほどの信心は俺にもないが、それでも、季節のものを食卓に出すのは、嫌いじゃない。
胡麻豆腐。揚げ出しの高野豆腐。茄子とししとうの煮浸し。きのこの含め煮。肉も魚も使わない。それでも、乾し椎茸と昆布を一晩水に浸しておけば、出汁は驚くほど深く澄む。
前の晩から仕込んだ茶色い水に、鼻を近づける。きのこと海の、滋味の匂いがふわりと立った。
動物のものを使わなくても、これだけで、ちゃんと満ちる。
ことこと、と鍋が鳴る。煮浸しの茄子が、出汁を吸って、つやつやと色を深めていった。
そうめんも、茹でた。氷を浮かべた器に、つるりと泳がせて。みょうが、生姜、大葉。薬味をたっぷり刻んで添える。
夏の終わりの、胃にやさしい食卓だ。
「いい匂い」
怜さんが、台所を覗きにきた。
「精進料理、ですか。地味だけど、こういうの、染みる」
「お疲れでしょう。今日は、軽めにしておきました」
***
そこへ、奇跡のように、真壁さんが部屋から下りてきた。髪はぼさぼさ、目の下にはクマ。だが、足取りは、餓死寸前というほどではない。
「……飯の、匂いがした」
「ちょうどよかった。座ってください」
三人で、食卓を囲んだ。普段は四人、五人で賑わう大きな食卓が、今日は三人だと、やけに広く感じる。
「いただきます」
そうめんを、それぞれにすする。つるつると喉を通る。冷たい麺に、薬味の香りが立つ。
しばらく、誰も喋らなかった。ただ、麺をすする音と、氷の溶ける音だけが、リビングに満ちていた。
それが、嫌な静けさではなかった。
「……管理人さんって」
ふと、真壁さんが口を開いた。
「お盆、どこにも帰らないんですね」
俺は、箸を止めた。
「ええ。帰る家は、もう、ないので」
「ご家族は」
「いません。ずいぶん前から、一人ですよ」
怜さんが、ちらりとこちらを見た。俺は、なんでもないことのように、煮浸しを口に運んだ。
「昔はね、お盆なんて、休んだことなかったんですよ。むしろ、世の中が休む時こそ、いちばん忙しい仕事でしたから。みんなが帰省したり、旅行したりする、その先で待ってる仕事でしてね」
そこまで言って、俺は、ふと口をつぐんだ。
言いすぎた、と思った。
***
「……その仕事って」
真壁さんが、すかさず食いついた。職業柄、人の話の隙を見逃さない人だ。
「なんだったんですか。管理人さんの、前の仕事」
「たいしたものじゃ、ないですよ」
俺は、そうめんをすすった。
「人の世話を焼く、というだけの仕事です。今と、たいして変わりません」
「でも、お盆が忙しいって。旅行とか、旅館とか、そういう」
「さあ、どうだったかな。もう、昔のことですから」
はぐらかしたつもりは、なかった。ただ、あの頃のことを、進んで話したいとは、思えなかった。
通知音が、まだ怖い。どこかで誰かのスマホが短く鳴っただけで、今でも、肩が小さく跳ねる。秒刻みで無理難題が降ってきた、あの日々。胸の奥が、きゅっと冷たくなる。
だから、スマホは持たない。固定電話だけにした。だから、ここにいる。
それを、どう説明すればいいのか、俺には分からなかった。
「……まあ、いいですけど」
真壁さんが、ふいと視線を逸らした。けれど、その横顔には、なんともいえない引っかかりが残っているのが、分かった。
***
二人が、それぞれの部屋へ戻ったあと。
食器を洗っていると、真壁さんが、もう一度だけ下りてきた。
「あの。さっきの」
流しの前で、彼女が、言いにくそうに言葉を探していた。
「私たち、毎日、管理人さんのご飯、食べてるじゃないですか。当たり前みたいに。──でも、考えたら、私、管理人さんのこと、何も知らないなって」
俺は、手を止めた。
「名前と、料理が上手いことと、犬の世話してることくらいで。それ以外、ほんとに、何も。どこから来た人なのかも、なんでここにいるのかも」
真壁さんが、まっすぐにこちらを見た。
「ずるくないですか、それ。こっちのことは、ぜんぶ知ってるくせに。私が締切で死にかけてることも、ゆめが寂しがりなことも、ぜんぶ、お見通しで。なのに、自分のことは、何も言わない」
その言葉に、悪意はなかった。ただ、本当に、不思議で、少しだけ、寂しそうだった。
「……すみません」
俺は、それしか言えなかった。
「俺の話なんて、聞いても、面白くないですから。それより、皆さんの話を聞いてるほうが、ずっといい」
「それが、ずるいって言ってるんです」
真壁さんは、ふくれて、それでも、もう追及はしなかった。
「……まあ、いいですけど。いつか、気が向いたら、聞かせてくださいよ。締切が、明けたら」
そう言って、彼女は二階へ戻っていった。
人の減った食卓で、精進料理とそうめんを囲む三人。「管理人さんのこと、私、何も知らない。ずるくないですか」――そのまっすぐな寂しさに胸を掴まれたら、【泣ける】か【いいね】を! 過去の匂わせが気になったらブックマークを。




