↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
28/36

第3話 誰もいない、リビング

その日の夕方。


リビングに、怜さんが帰ってきた。珍しく、定時に近い時間だった。


「ただいま……って、誰もいないと、なんか変な感じね」


ソファに鞄を投げて、怜さんが部屋を見回す。いつもなら、まひるさんが帰宅報告で騒いで、ゆめちゃんがスマホ片手にソファを占領しているはずの時間だ。それがない。


「お盆ですからね。賑やかなのが、二人ばかり減ると」


「ね。……静かすぎて、落ち着かない」


怜さんが、苦笑した。


台所に立った俺は、今日は精進料理を作っていた。お盆だから、というほどの信心は俺にもないが、それでも、季節のものを食卓に出すのは、嫌いじゃない。


胡麻豆腐。揚げ出しの高野豆腐。茄子とししとうの煮浸し。きのこの含め煮。肉も魚も使わない。それでも、乾し椎茸と昆布を一晩水に浸しておけば、出汁は驚くほど深く澄む。


前の晩から仕込んだ茶色い水に、鼻を近づける。きのこと海の、滋味の匂いがふわりと立った。


動物のものを使わなくても、これだけで、ちゃんと満ちる。


ことこと、と鍋が鳴る。煮浸しの茄子が、出汁を吸って、つやつやと色を深めていった。


そうめんも、茹でた。氷を浮かべた器に、つるりと泳がせて。みょうが、生姜、大葉。薬味をたっぷり刻んで添える。


夏の終わりの、胃にやさしい食卓だ。


「いい匂い」


怜さんが、台所を覗きにきた。


「精進料理、ですか。地味だけど、こういうの、染みる」


「お疲れでしょう。今日は、軽めにしておきました」


***


そこへ、奇跡のように、真壁さんが部屋から下りてきた。髪はぼさぼさ、目の下にはクマ。だが、足取りは、餓死寸前というほどではない。


「……飯の、匂いがした」


「ちょうどよかった。座ってください」


三人で、食卓を囲んだ。普段は四人、五人で賑わう大きな食卓が、今日は三人だと、やけに広く感じる。


「いただきます」


そうめんを、それぞれにすする。つるつると喉を通る。冷たい麺に、薬味の香りが立つ。


しばらく、誰も喋らなかった。ただ、麺をすする音と、氷の溶ける音だけが、リビングに満ちていた。


それが、嫌な静けさではなかった。


「……管理人さんって」


ふと、真壁さんが口を開いた。


「お盆、どこにも帰らないんですね」


俺は、箸を止めた。


「ええ。帰る家は、もう、ないので」


「ご家族は」


「いません。ずいぶん前から、一人ですよ」


怜さんが、ちらりとこちらを見た。俺は、なんでもないことのように、煮浸しを口に運んだ。


「昔はね、お盆なんて、休んだことなかったんですよ。むしろ、世の中が休む時こそ、いちばん忙しい仕事でしたから。みんなが帰省したり、旅行したりする、その先で待ってる仕事でしてね」


そこまで言って、俺は、ふと口をつぐんだ。


言いすぎた、と思った。


***


「……その仕事って」


真壁さんが、すかさず食いついた。職業柄、人の話の隙を見逃さない人だ。


「なんだったんですか。管理人さんの、前の仕事」


「たいしたものじゃ、ないですよ」


俺は、そうめんをすすった。


「人の世話を焼く、というだけの仕事です。今と、たいして変わりません」


「でも、お盆が忙しいって。旅行とか、旅館とか、そういう」


「さあ、どうだったかな。もう、昔のことですから」


はぐらかしたつもりは、なかった。ただ、あの頃のことを、進んで話したいとは、思えなかった。


通知音が、まだ怖い。どこかで誰かのスマホが短く鳴っただけで、今でも、肩が小さく跳ねる。秒刻みで無理難題が降ってきた、あの日々。胸の奥が、きゅっと冷たくなる。


だから、スマホは持たない。固定電話だけにした。だから、ここにいる。


それを、どう説明すればいいのか、俺には分からなかった。


「……まあ、いいですけど」


真壁さんが、ふいと視線を逸らした。けれど、その横顔には、なんともいえない引っかかりが残っているのが、分かった。


***


二人が、それぞれの部屋へ戻ったあと。


食器を洗っていると、真壁さんが、もう一度だけ下りてきた。


「あの。さっきの」


流しの前で、彼女が、言いにくそうに言葉を探していた。


「私たち、毎日、管理人さんのご飯、食べてるじゃないですか。当たり前みたいに。──でも、考えたら、私、管理人さんのこと、何も知らないなって」


俺は、手を止めた。


「名前と、料理が上手いことと、犬の世話してることくらいで。それ以外、ほんとに、何も。どこから来た人なのかも、なんでここにいるのかも」


真壁さんが、まっすぐにこちらを見た。


「ずるくないですか、それ。こっちのことは、ぜんぶ知ってるくせに。私が締切で死にかけてることも、ゆめが寂しがりなことも、ぜんぶ、お見通しで。なのに、自分のことは、何も言わない」


その言葉に、悪意はなかった。ただ、本当に、不思議で、少しだけ、寂しそうだった。


「……すみません」


俺は、それしか言えなかった。


「俺の話なんて、聞いても、面白くないですから。それより、皆さんの話を聞いてるほうが、ずっといい」


「それが、ずるいって言ってるんです」


真壁さんは、ふくれて、それでも、もう追及はしなかった。


「……まあ、いいですけど。いつか、気が向いたら、聞かせてくださいよ。締切が、明けたら」


そう言って、彼女は二階へ戻っていった。


人の減った食卓で、精進料理とそうめんを囲む三人。「管理人さんのこと、私、何も知らない。ずるくないですか」――そのまっすぐな寂しさに胸を掴まれたら、【泣ける】か【いいね】を! 過去の匂わせが気になったらブックマークを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。