第4話 賄い係だっただけ、ですよ
夜更け。
固定電話が、静かに鳴った。受話器を上げると、まひるさんの、明るい声がした。実家の固定電話から、わざわざかけてきたらしい。
「あ、管理人さん! 無事に着きました。今、おばあちゃんちで、お饅頭食べてます」
「それはよかった。ゆっくりしてきてくださいね」
「はい! ……あの」
少し、声のトーンが変わった。
「なんか、変なんですけど。実家、すごく落ち着くはずなのに。ご飯食べてても、ふと、常夜灯のこと、思い出しちゃって。管理人さんのご飯、もう恋しいです」
俺は、思わず笑った。
「まだ二日目ですよ」
「分かってるんですけど! ……管理人さんにも、帰りたい場所って、あるんですか」
ふいの問いだった。俺は、受話器を握ったまま、少し考えた。
帰る家は、もう、ない。帰る家族も、いない。
でも──
「……ここが、そうなりつつ、ありますよ」
そう答えると、電話の向こうで、まひるさんが、くすぐったそうに笑った。
「なにそれ。私たちの家なのに」
「ええ。皆さんの、家です。でも、皆さんが帰ってくるのを待ってるあいだに、いつのまにか、俺の帰る場所にも、なってたみたいで」
受話器の向こうが、少し、静かになった。
「……はやく、帰りますね」
まひるさんが、ぽつりと言った。
電話を切って、俺は、暗いリビングを見回した。
明日は、何を作ろうか。二人が帰ってきたら、好物を出してやろう。まひるさんには生姜焼き丼を、ゆめちゃんには、あのトーストを。
そんなことを考えていると、足元で、小麦が「ふぁ」と欠伸をした。
「お前も、二人が帰ってくるの、待ってるか」
金色の頭を撫でると、犬は、尻尾をぱたんと一つ振った。
帰る場所がある人も、ない人も。この家では、みんな、誰かの「おかえり」を、待っている。
***
黒塗りの車が、常夜灯の前に停まったのは、よく晴れた秋の昼下がりだった。
***
その日、家にいたのは、俺と、真壁さんと、帰省から戻ったゆめちゃんの三人だった。
中庭で小麦にブラシをかけていると、まひるさんが血相を変えて駆け込んできた。
「か、管理人さん! 外に、すっごい車が……!」
「車?」
玄関を開けると、たしかに、立派な黒塗りの車が、塀の前に堂々と停まっていた。ぴかぴかに磨かれた車体。スモークガラス。およそ、この古びた洋館の前にはそぐわない。
運転席から、黒いスーツの男が降りてきた。きっちりと撫でつけた髪。隙のない物腰。手には、大きな桐の箱を、うやうやしく抱えている。
男は、俺の顔を見るなり、深々と一礼した。
「柏木様。ご無沙汰しております」
「……ええと」
俺は、記憶を探った。見覚えが、ある。たしか、あの人の──
「ピエールさんの、秘書の方でしたか」
「左様でございます。本日は、オーナーよりの言伝と、お届け物がございまして」
***
リビングに、住人三人が、こっそり顔を覗かせていた。ゆめちゃんが、スマホ片手に、目を真ん丸にしている。
「ちょっと待って。なに、あの黒服。ドラマじゃん。管理人さん、何者……?」
秘書の男は、桐の箱を、恭しく食卓に置いた。そして、蓋を、すっと開ける。
中に、整然と並んでいたのは──牛肉だった。
霜の降りた、見事なサシ。きめ細かく、しっとりと光を弾く、上等な肉。それだけじゃない。箱の隅には、見るからに高級そうな海老や、艶やかな松茸まで、丁寧に詰められていた。
「うわ……」
真壁さんが、思わず声を漏らした。
「これ、なんか、すごい肉……」
「最高級の和牛でございます。海老は、伊勢の活け締めのもの。松茸は、今朝、山から下ろされたばかりのものを」
秘書が、淡々と説明する。
「オーナーが、ぜひ柏木様にと。『あの男に、また旨いものを作ってもらいたい。これを、賄いにでも使ってくれ』と」
賄いにでも。俺は、その肉を見下ろして、思った。
──また、ピエールさんは、こういうことを。
「いつも、すみません。お気遣いなく、と伝えてもらえますか」
「いえ。オーナーは、柏木様にお返しできる恩は、これしきのことでは到底足りないと、常々申しております」
恩、と言われても。俺は、首をひねった。
昔、あの人が困っていたとき、たまたま、ちょっとした料理を出しただけだ。それだけのことで、いまだに、こうして気にかけてもらっている。
たいしたことは、していないのに。
「では、わたくしはこれで」
秘書は、もう一度深々と頭を下げると、来た時と同じように、滑るように去っていった。黒塗りの車が、角を曲がって消えていく。
リビングには、桐の箱と、高級食材と、ぽかんとした俺たちが残された。
***
「……ねえ」
最初に口を開いたのは、ゆめちゃんだった。
「ねえ、おじさ……管理人さん。今の、なに。なんなの」
「差し入れ、ですね」
「差し入れのレベルじゃないでしょ! 黒塗りの車だよ! 秘書だよ! オーナーって何! あの肉、絶対、私の一ヶ月の生活費より高いよ!」
ゆめちゃんが、肉の箱を指さして、わなわなと震えている。
真壁さんは、腕を組んで、じっと俺を観察していた。
「管理人さん。スマホも持ってないのに、なんで、海外の大富豪から差し入れが来るんですか」
「海外、なんて言いましたっけ」
「ピエールって。今、言いましたよね」
──しまった。
まひるさんが、おそるおそる訊いてきた。
「あの。管理人さんの、前のお仕事って……もしかして、すごい、人だったんですか」
俺は、肉を冷蔵庫に仕舞いながら、できるだけ何でもないことのように答えた。
「いえ。本当に、ただの賄い係でしたよ。たまたま、関わった人が、たまたま、ちょっと偉い人だっただけで」
「ちょっと偉い人は、黒塗りの車で松茸を届けないんですよ……」
真壁さんが、頭を抱えた。
黒塗りの車、うやうやしい秘書、桐箱いっぱいの和牛と松茸。スマホも持たないのに海外の大富豪から差し入れが届く――「ただの賄い係」じゃ説明つかないこの珍事にニヤッときたら、【びっくり】か【笑える】を! 正体の答え合わせはブックマークで。




