第2話 帰る場所の、ある人ない人
夕方。
佐和子さんは、すっかり顔色を取り戻して、リビングの片付けを手伝ってくれていた。
棚の奥から、古いアルバムや、登美さんの使っていた割烹着が出てくる。そのたびに、佐和子さんは「あ、これ」と懐かしそうに目を細めた。
「周さん。お彼岸だから、おはぎでも作ろうか。母、得意だったのよ」
「いいですね。小豆、ちょうど買ってあります」
二人で台所に並んで、小豆を炊いた。ことこと、ことこと。甘い湯気が、台所を満たしていく。
もち米を炊いて、軽くついて、丸めて。あんこで包む。指先が、ほんのり赤く染まる。
不格好なおはぎが、笊にいくつも並んだ。
「母のはね、もっと上手だった」
佐和子さんが笑う。
「でも、これはこれで、いいわね。手の跡があって」
──そのときだった。
ふと、佐和子さんが手を止めて、こちらを見た。
「ねえ、周さん。母があなたに遺したもの、ちゃんと、ぜんぶ開けた?」
俺は、おはぎを丸める手を止めた。
「手紙は。あの、遺言の手紙は、読みました」
「うん。それは聞いてる。……でも、それだけ?」
佐和子さんの目が、少しだけ、真剣になった。
「母ね。亡くなる前に言ってたの。『周さんには、まだ渡してないものがある』って。手紙とは別に、何か。──私も、それが何なのかは、知らないんだけど」
俺の胸の奥で、何かが、とん、と小さく鳴った。
遺品の箱。半年間、開けるのが怖くて、押し入れの奥に仕舞い込んでいた、あの箱。
手紙を読んで、覚悟を決めて。それで、ぜんぶだと思っていた。
でも──箱の底を、俺は、本当にちゃんと見ただろうか。
「……心当たり、ないんですけど」
「そう。なら、いいの。気が向いたら、一度、ちゃんと開けてみて」
佐和子さんは、それ以上は言わなかった。ただ、あんこのついた指で、ひとつ、おはぎを摘んで、俺に差し出した。
「はい。味見」
口に入れると、甘さが、じんわりと舌に広がった。
母の味を、娘が継いで。娘の味を、俺が、こうしてもらっている。
繋がっていくものが、たしかにある。
***
その夜。
仕事から帰ってきた住人たちが、笊のおはぎに歓声を上げているのを横目に、俺は管理人室の押し入れの前に立っていた。
奥に、あの箱がある。
開けようか、と思って。でも、結局、手は伸びなかった。
なんでだろうな、と思う。手紙を読んだあの夜、俺はもう、怖いものなんてないと思っていたのに。
箱の底に、まだ、何かがある。それが分かった途端、また、あの頃の──開けるのが怖くて仕方なかった、半年前の自分に、少し戻ってしまったような気がした。
「……明日にしよう」
誰にともなく、そう呟いて、俺は押し入れの襖を、そっと閉めた。
リビングのほうから、佐和子さんと住人たちの、笑い声が聞こえてくる。
その温かい声を聞きながら、俺はもう一度だけ、襖の向こうの暗がりを、ちらりと振り返った。
***
お盆になると、この家は、いつもより少しだけ、静かになる。帰る場所のある人が、帰っていくからだ。
***
八月の半ば。
リビングの黒板に、外出予定を書く文化が、すっかり根づいている。スマホで「今帰る」「夕飯いる」を送れないこの家では、住人たちはチョークで予定を書いていく。それが、常夜灯の連絡帳だ。
その黒板に、二つの名前が並んでいた。
『七瀬 実家に帰省します(13〜16日)』
『小田切 帰省(〜17日)』
まひるさんと、ゆめちゃん。二人は数日前から、そわそわと荷造りをしていた。
「管理人さん、お土産買ってきますね! うちの地元、お饅頭が有名なんです」
まひるさんが、玄関で大きなボストンバッグを抱えて、嬉しそうに言った。実家の犬に会えるのが、よほど楽しみらしい。
「気をつけて。ご家族に、よろしく」
「はい!」
ゆめちゃんは、ゆめちゃんで、玄関先でぶつくさ言っていた。
「べつに、帰りたくなんかないんだけどさ。親が、顔見せろってうるさいから」
そう言いながら、いちばん大きなお土産の袋を抱えているのは、見ないふりをしておいた。
二人を送り出すと、玄関が、しんとした。
***
残ったのは、怜さんと、真壁さん。そして俺。
怜さんは、お盆も仕事だと言っていた。
「広告代理店に、お盆休みなんて概念ないのよ。クライアントが動いてる限り、こっちも動くの」
そう言って、朝から出ていった。
真壁さんは、相変わらず締切と格闘していて、部屋からほとんど出てこない。
「実家、ないんで」
一度、台所で水を飲みながら、ぽつりとそう言ったのを覚えている。深い意味は訊かなかった。たぶん、訊かれたくない種類の話だった。
帰る場所のある人と、ない人。お盆という季節は、それを、否応なく分けてしまう。
がらんとしたリビングに、そうめんを茹でる湯気が、ゆらりと立ちのぼる。人の減った食卓が、この夜、思いのほか近い距離で、俺の過去にそっと触れてくることになるとは、このときは、まだ思ってもいなかった。
お盆になると、帰る場所のある人が帰っていく。二人で炊いた不格好なおはぎと、黒板に並ぶ帰省の名前。季節が静かに人を分ける寂しさが沁みたら、【泣ける】か【いいね】を! 続きが気になったらブックマークで。




