第1話 お母さんの、白いお粥
その人は、エコバッグを両手に提げて、玄関先で泣きそうな顔をしていた。
「周さん。……ちょっと、置いてもらってもいい?」
吉永佐和子さん。この女性専用シェアハウス『常夜灯』を俺に遺してくれた、亡き登美さんの一人娘だ。俺は登美さんの遺志を継いで、この家の賄いをする住み込みの管理人をしている。
***
九月の、午前のことだった。夏の名残の蝉が、もう力なく鳴いている。中庭の木陰では、小麦が腹を出して伸びていた。
佐和子さんが常夜灯に来るのは、いつも前触れがない。実家──つまりこの家の、片付けがあるとき。あるいは、ご主人と何かあったとき。
今日は、たぶん、両方だった。
「散らかってて、すみません」
俺がリビングのソファを勧めると、佐和子さんは荷物を下ろして、深い息を吐いた。
「いいの。私が押しかけてるんだから」
四十五歳。母・登美さんの面影を少しだけ残した、品のいい人だ。普段はしっかり者の主婦で、めったに弱音を見せない。
その人が、今日は肩を落としていた。
「夫とね、ちょっと。……いえ、ちょっとじゃないか。実家の片付けのことで、揉めて」
それ以上は、訊かなかった。俺の仕事は、訊くことじゃない。
「お茶でも淹れますね。何か、お腹に入れますか」
「……ううん。食欲が、なくて」
そう言って、佐和子さんは力なく笑った。
食欲がない、という人ほど、本当は空っぽなのだ。俺はそれを、よく知っている。
***
台所に立った。冷蔵庫を開ける。胃に重いものは、今日は違う。
米を、ひとつかみ。研いで、土鍋に移す。水をたっぷり。火は、とろ火。
──白粥にしよう。
そう決めたのは、半分は無意識だった。弱った人に出すものは、いつも決まっている。胃にやさしくて、喉を通って、体の芯にそっと熱が戻るもの。
ことこと、と土鍋が小さく鳴りはじめる。米が踊って、だんだんと角が取れて、白く、とろりとほどけていく。
蓋を少しずらして、吹きこぼれないように。火加減だけは、目を離せない。強すぎれば焦げるし、弱すぎれば、いつまでも米が芯を残す。
急いではいけない。かき混ぜすぎても、いけない。米が、自分の重みでほどけていくのを、ただ、見守る。
粥は、待つ料理だ。手をかけるのではなく、時間をかける。それが、弱った人の胃には、いちばんやさしい。
土鍋の縁から、白い泡が、ふつ、ふつ、と立っては消えていく。立ちのぼる湯気が、米のやさしい匂いを運んで、台所をやわらかく満たしていった。
甘くもなく、香ばしくもない。ただ、白い匂い。
塩を、ほんの少し。味付けは、それだけだ。飾りはいらない。出汁も、薬味も、今はいらない。
ただ、目の前の人の、空っぽの胃を、繋ぐためだけの一杯。
***
茶碗によそって、佐和子さんの前に、ことりと置いた。湯気が、まっすぐに立ちのぼる。
佐和子さんは、それをじっと見つめていた。それから、ゆっくりと匙を取った。
ひと匙、すする。
「……」
匙を持つ手が、止まった。
「……これ」
その目が、みるみる潤んでいく。
「お母さんの、お粥だ」
ぽつり、と零れた声が、震えていた。
「子どものとき。熱を出すと、いつも、これだったの。何にも入ってない、白いだけのお粥。お腹に入れると、なんでか、ほっとして」
匙を握ったまま、佐和子さんは肩を震わせた。
「……周さん。あなた、どこで、これを」
「登美さんに」
俺は、静かに言った。
「教わったわけじゃ、ないんですけどね。一度、いただいたんです。ここに来たばかりの頃に。雨の夜に、行き倒れてた俺に、登美さんが」
佐和子さんが、顔を上げた。
「飾りも何もない、白いお粥でした。塩がほんの少し。それだけ。なのに俺は、その一杯で、声を上げて泣いたんです。みっともなく」
あの夜のことは、今でも、はっきり覚えている。
「料理ってね、いつのまにか、誰かを感心させるための道具になってたんです。俺の中で。美味しいと言わせるための、すごいと言わせるための。……でも登美さんの粥は、そうじゃなかった。ただ、俺が死なないように、それだけのために炊いてあった」
目の前の命を、繋ぐためだけの一杯。
「思い出したんですよ。料理ってのは、本当はそういうものだったって。それから俺は、ここで、飯を炊くようになりました」
佐和子さんは、しばらく黙って、俺を見ていた。それから、もう一度、粥をすくった。
ひと匙、ふた匙。
最初は食欲がないと言っていた人が、いつのまにか、夢中で匙を動かしていた。白い粥が、喉を通って、体の奥へ落ちていく。冷えていた胃が、内側から、じんわりと温まっていくのが、見ているこちらにも分かった。
肩から、すっと、力が抜けていく。
人は、空腹のときほど、心まで尖ってしまうものだ。逆に言えば、温かいものが腹に入るだけで、ほどけてしまうこともある。
「……美味しい」
涙の落ちた茶碗に、また湯気が立つ。
「母がね。生きてるとき、言ってたの。『いい人に、この家を託せた』って。私、そのときは、半分しか分かってなかった。なんで母が、よりにもよって、ぽっと現れた知らないおじさんに、大事なこの家を遺したのか」
佐和子さんが、笑った。今日はじめて、ちゃんと笑った。
「でも、今、分かった気がする。──母が、あなたを選んだ理由が」
足元で、小麦が「くぅん」と鼻を鳴らした。垂れ耳の犬が、佐和子さんの膝に、そっと顎をのせる。
佐和子さんは、その金色の頭を撫でながら、子どものように、また少し泣いた。
空になった茶碗に、まだ、白い匂いがかすかに残っている。湯気の名残が、そっと立って、消えた。
登美さんが遺したものを、俺は、まだぜんぶは知らない。──そのことに気づかされるのは、もう少し、あとのことだった。
飾りも何もない、塩だけの白いお粥。ひと匙で「お母さんのお粥だ」と涙ぐむ人と、その一杯を教わった管理人さん。温かいものが胃に落ちて心がほどける瞬間にじんときたら、【泣ける】か【にこにこ】を! この家の来歴が気になったらブックマークを。




