第4話 頑張れって、言わないんですね
真壁さんは、しばらく黙っていた。
それから、れんげを置いて、ふしぎなものを見るような目で、俺を見た。
「……頑張れって、言わないんですね」
俺は、少し考えた。
「言われたいですか」
「……ううん」
彼女は、首を横に振った。鼻をすすって、もう一度、雑炊をすくう。
「言われたくない。もう、じゅうぶん頑張ってるもん」
「ですよね」
「うん」
「じゃあ、言いません」
ふ、と。彼女の口元が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、それでも、笑った。
「……ずるいな、その返し」
「ずるかったですか」
「ずるいですよ。頑張れって言われたら、私、たぶん、もっと泣いてた。頑張れないから、しんどいのに。みんな、励ましてるつもりで、追い詰めてくるんです」
「俺は、励ますの、下手なんで」
「下手じゃないですよ」
彼女は、れんげを置いて、湯気の立つ鍋を、じっと見た。
「これ、すごく、励まされてる。一言も言われてないのに」
***
雑炊を平らげた真壁さんは、空になった土鍋を見下ろして、ぽつりと呟いた。
「……生姜、入ってましたよね」
「入れました。体、あったまるので」
「やっぱり」
彼女は、れんげを置いた。
「管理人さんって、何者なんですか」
その問いに、俺は答えを持っていなかった。だから、いつものように、笑って受け流した。
「ただの、犬と暮らしてる管理人ですよ」
足元で、小麦が同意するように「ふぁ」とあくびをした。
真壁さんは、それを見て、また少し笑った。
***
部屋に戻る間際、彼女は階段の途中で振り返った。
「あの、管理人さん」
「はい」
「明日……いや、もう今日か。資料、調べたいことがあって。Wi-Fi、貸してもらってる分、ちゃんと使い倒します」
「どうぞ。爆速ですよ」
「うん。知ってる」
そう言って、彼女は二階へ消えた。
そのとき俺は、まだ気づいていなかった。彼女がこれから調べようとしていた「資料」が、自分のことを糾弾する、見ず知らずのアカウントの投稿だったことに。
そして、その投稿が、翌日、常夜灯の玄関先まで歩いてくることに。
***
「似ているだけでは、盗作になりません」
その声は、大きくなかった。むしろ、いつもより低かった。だが、玄関先の空気が、その一言で、すっと凍りついた。
「彼女には、日付のある制作履歴があります。証拠の話を、しましょうか」
少し、時間を戻す。
***
その日の昼、真壁さんが、青い顔で台所に駆け込んできた。スマホを握る手が、震えていた。
「管理人さん。私……パクリだって、言われてて」
「落ち着いて。座ってください」
椅子を引いて、麦茶を出す。彼女は座ったものの、画面から目を離せずにいた。
「同じジャンルの、別の作家さんが……私が、その人の作品を盗作したって。SNSで、ずっと書いてて。フォロワーも多い人で、もう、拡散されてて」
声が、上ずっていた。
「設定が似てるって。確かに、ちょっと似てるところは、あるんです。でも、私、ちゃんと自分で考えて……でも、似てるのは事実で、だから、もう、どう言い返したらいいか」
スマホの画面を、俺にも見えるように、彼女が差し出した。短い投稿が、ずらりと並んでいた。
『盗作です。証拠あります』『有名作家がこんなことするなんて』『拡散希望』。引用する形で、彼女の作品のコマと、その男の作品のコマが、並べて貼られている。リプライ欄は、見ず知らずの人間の言葉で、埋まっていた。
「もう、二万回くらい、拡散されてて」
声が、震えていた。
「知らない人が、何百人も、私のこと、泥棒だって。一人ずつには、何も言い返せないし、言い返したら、もっと燃えるって、分かってて。だから、ただ、見てるしかなくて」
細い指が、麦茶のコップを、握りしめている。爪のあいだに、わずかにインクの色が残っていた。
「描いたもの、取り下げろって言われてて。取り下げたら、認めたことになるって、分かってるんです。でも、これ以上騒がれたら、覆面の意味も、なくなる。誰が描いてるか、バレる。そしたら、私、もう」
そこで、言葉が途切れた。
九個の好意より、一個の悪意が頭から離れない人だ。それが今、何百倍にもなって、彼女に降ってきている。
「真壁さん」
俺は、彼女の目を見た。
「君は、盗んでいませんね」
「……盗んでない、です」
「なら、それでいい」
そう言ったとき、玄関のチャイムが鳴った。
***
ドアを開けると、見知らぬ男が立っていた。三十代だろうか。きちんとした身なりだが、目が据わっている。背後に、スマホを構えた連れが二人。
「真壁累さん、こちらですよね。話があるんですが」
撮影しながら凸する。よくある手口だ。
俺は、真壁さんを背にして、一歩、前に出た。二階には上げない。彼女を、玄関より奥には出さない。立ち位置だけで、線を引く。
「うちの住人に、どのようなご用件でしょう」
「盗作の話ですよ。彼女、僕の作品をパクってる。謝罪と、作品の取り下げを要求しに来た。正当な抗議です」
男は、まくし立てた。
「設定がそっくりなんだ。主人公の境遇も、世界観も。偶然なわけがない。彼女は僕のアイデアを盗んだ。これは、許されないことだ」
俺の背中で、真壁さんが、小さく息を詰めた。
「ちょっと、真壁さん。出てきてくれます? 顔見て話したいんで」
男が、首を伸ばして、奥を覗き込もうとする。
「逃げるんですか。やましいことがあるから、出てこられないんでしょう。SNS見てますか。みんな怒ってますよ。あなたのファンも、もう離れてる。今のうちに謝ったほうが、あなたのためだ」
「あなたのため」。
その言葉が出たとき、俺のなかで、何かが、すっと、静かになった。
「頑張れ」で追い詰められてきた人へ、あえて言わない返し。一言も励まさないのに、いちばん励まされる――そのやりとりにぐっときたら、【泣ける】か【笑える】を! 続きはブックマークに入れておいてください。




