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第3話 名前じゃなく、中身を

土鍋を火にかける。


炊いた白飯を一度ざるで洗って、ぬめりを落とす。こうすると、雑炊が重たくならない。さらりと、胃に滑り込んでいく。


昆布と鰹で、出汁を引く。鍋の底から、小さな泡が立ちはじめたら、火を弱める。煮立てると、出汁は濁って、角が立つ。澄んだ一杯にするには、ぎりぎり沸かさない、その手前で止める。


ことこと、と鍋が鳴りはじめる。


ほぐした鶏もも肉を入れて、しばらく。鶏のコラーゲンとイノシン酸が、ゆっくりと汁に溶け出していく。湯気が、白くやわらかく、立ち上ってくる。


そこへ、洗っておいた飯を加える。ことこと、ことこと。米が出汁を吸って、ふくらんでいく。とろりと、汁にとろみがついてきたら、溶き卵を、糸を引くように回し入れる。


火を止めて、蓋をして、ほんの十数秒。余熱で、卵がふんわりと固まる。半熟の、いちばんいいところで。


最後に、おろし生姜をひとさじ。生姜のあたたかさは、弱った体の芯に効く。落ち込んだ夜の、いちばん奥のところまで届く。


ねぎを散らすと、湯気がふわりと立ち上った。温かい料理は、湯気といっしょに香りを運ぶ。たぶん、人が「いい匂い」と思った瞬間、心はもう、少しだけ開いている。


***


階段の下の、リビングのテーブル。


そこに土鍋敷きを置いて、鶏雑炊の鍋を載せた。れんげと、小皿の梅干しを添える。


真壁さんは、来なかった。


来ないなら、来ないでいい。


俺は背を向けて、流しの洗い物を始めた。蛇口の水音に紛れるように、軽く声をかける。


「冷める前に、どうぞ」


しばらく、何も起きなかった。


それから、階段がぎし、と鳴った。


***


ボサボサの髪に、目の下のクマ。色の抜けたスウェットに、肩からずり落ちかけたブランケット。締切明けの真壁さんは、相変わらず、最悪の状態の野生動物だった。


俺はそれを見ても、表情を変えなかった。


「いい締切でしたか」


「……最悪でした」


掠れた声で、彼女は言った。そして、のろのろとテーブルについて、れんげを取った。


ひとくち。


口に運んだ瞬間、彼女の肩が、びくりと跳ねた。


生姜の効いた一口が、喉を通っていく。それを追いかけるように、彼女の目から、ぼろりと涙が落ちた。


「……、っ」


れんげを持つ手の甲で、ぐい、と目元を拭う。けれど追いつかない。次から次へと、こぼれていく。


俺は、何も言わなかった。洗い物の手も止めなかった。


泣いている人の横で、湯を沸かす。それだけのことが、ときに、どんな言葉よりも効くことがある。


***


雑炊が半分ほど減った頃、真壁さんが、ぽつりと言った。


「……あのね、管理人さん」


「はい」


「私の漫画、別の名前で描いてるんです。覆面っていうか、誰が描いてるか、出してなくて」


「そうなんですか」


「だから、売れてるのは『その名前』なんです。私じゃない。──素の私が描いたものなんて、誰も評価してくれない。たぶん、一生」


れんげの先で、卵のかたまりを、つついている。


「エゴサして……感想、十個あるうちの九個が褒めてくれてても、残りの一個が頭から離れなくて。同期の子がバズってるの見ると、勝手に比べて、勝手にしんどくなって。いいねの数が、そのまま、私の価値みたいで」


「……」


「変ですよね。好きで始めたはずなのに。もう、漫画好きだったかどうかも、分かんない」


ぽつ、ぽつ、と。言葉が、雑炊の湯気のあいだに、こぼれていく。


「同期の子に、結婚しましたって連絡が来て。おめでとう、って返して。スマホ閉じたら、自分の部屋、ぐちゃぐちゃで。鏡見たら、別人みたいにやつれてて。私、何やってんだろうって」


れんげが、止まる。


「在宅だから、一日誰とも喋らない日もあって。自分の声、一回も出さない日。そういう日は、夜になると、自分がちゃんと、世界にいるのかどうか、分かんなくなるんです」


俺は、洗い終えた包丁を布巾で拭いて、鞘に納めた。そして、彼女の向かいに座った。


「真壁さん」


「はい」


「君が描いたもの、ちゃんと、誰かに届いてますよ」


彼女の手が、止まった。


「数字は、人を一回しか数えません。一だったら一です。でも、その一の向こうに、君の漫画を読んで、その日が少しだけ良くなった人がいる。数字は、その人の顔までは映せないだけです」


「……」


「覆面でも、名前を出してても、それは変わりません。届くものは、ちゃんと、届くところに届いてる。名前のほうじゃなくて、君が描いた中身のほうに、人は救われてるんですよ」


彼女が、息を、止めた。


素の自分は誰にも評価されない、と彼女は言った。でも、それは違う。評価されているのは、名前ではなく、中身だ。中身を描いたのは、ほかでもない、目の前のこの人なのだ。


「俺は、それを言いたかっただけです。差し出がましいなら、忘れてください」


覆面作家の「素の私なんて誰も評価してくれない」に、湯気の立つ雑炊とたった一言で寄り添う夜。数字に削られる痛みに覚えがある方は、【泣ける】か【いいね】を! この先も見届けたい方はブックマークで。

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