第2話 描きながらで、いいですからね
食パンは、厚すぎず薄すぎず。八枚切りより、少し厚いくらい。
軽くトーストすると、表面がきつね色に色づいて、香ばしい匂いが立つ。焼けたパンの匂いというのは、不思議と人の警戒をほどく。理屈ではなく、たぶん、もっと古いところで、人は焼きたてのパンの香りに安心するようにできている。
辛子バターを薄く塗って、せん切りのキャベツをふんわり敷く。ソースをくぐらせたメンチカツを、そっと挟む。
半分に切ると、ざくっ、と衣が鳴った。
断面から、湯気と一緒に肉汁がじゅわりと染み出して、キャベツに吸われていく。茶色いソースと、肉の脂と、キャベツのみずみずしさ。それが、こんがり焼けたパンに、ぜんぶ抱きとめられていた。
それを、クッキングシートでくるりと巻いた。きゅっと、端をねじって留める。
片手で持てるように。齧った先から崩れないように。手が汚れないように。皿も、箸も、要らないように。
漫画を描く手を、止めなくていいように。
これなら、ペンを置かなくていい。視線を画面から外さなくていい。空いた左手で摘んで、口に運んで、それで終わりだ。
飯を出すというのは、本来、相手の時間を少しもらう行為だ。座らせて、向き合って、食べてもらう。けれど、今この人に必要なのは、向き合うことではなく、邪魔をしないことだった。
***
二階へ続く階段の、一番上。
そこに小さな折りたたみの台を置いて、紙で巻いたメンチカツサンドを載せた。湯気で曇らないよう、少しだけ冷ましてある。隣に、麦茶を入れた蓋つきの水筒。
ドアの向こうから、ペンの走る音がする。
俺はノックをしなかった。声もかけなかった。ただ、ドアの隙間から聞こえるくらいの小ささで、ひとりごとのように言った。
「描きながらで、いいですからね」
返事はない。
それでよかった。返事を求めて置く飯ではない。
俺は階段を下りた。
***
それから、半日。
夜更けに台所の灯りを落としに行ったとき、階段の上の台が、空になっているのに気づいた。クッキングシートが、几帳面に折り畳まれて置いてあった。水筒も空だった。
ドアの隙間から、まだペンの音がしている。
止まっていない。描けているのだ。
俺はそれだけ確かめて、灯りを消した。
***
──と、ここまでが俺の知っている話で。
真壁さんのほうに、何が起きていたのかを知ったのは、もっとあとのことだ。
締切で擦り切れた頭に、香ばしい匂いだけが、ふっと届いたこと。ペンを置いて、ドアを開けて、紙包みを手に取ったこと。クッキングシートの内側が、まだほんのりと温かかったこと。
齧った瞬間、ざくっと衣が鳴って、口の中いっぱいに肉汁が広がったこと。締切のあいだ、味なんてどうでもよかったはずなのに、その一口だけは、やけに、美味しかったこと。
そして──ソースの滴る音で、ペンを持つ手が、生まれて初めて止まったこと。
紙包みを齧りながら、ふと顔を上げて、台所に立つ男の背中を、長いこと目で追っていたこと。
「邪魔せず、栄養だけ置いていく」。それが、創作している人間にとって、どれだけ得がたい優しさなのか。世話を焼かれるのでも、励まされるのでもなく、ただ集中を一ミリも乱されずに、温かいものが、そこにある。
そして──手元のラフ帳に、いつのまにか、エプロンを着た中年の男を描いていて。それが、自分の漫画の主人公の顔になっていることに気づいて。ぎょっとして、ペンを取り落としたこと。
「……は?」
無人の部屋で、彼女が間抜けな声を漏らしたことを。慌ててラフ帳を閉じて、それでも気になって、もう一度そっと開いて、その横顔を、しばらく見つめていたことを。
「観察してただけ、なんですけど」
誰にともなく、彼女がそう言い訳したことを。その「観察」が、いつのまにか別のものに変わりかけていることに、本人もまだ気づいていなかったことを。
──俺はまだ、何も知らない。
ただ、揚げ物の油の始末をして、明日は何を作ろうかと、それくらいのことを考えながら、台所の灯りを消しただけだった。
***
締切が明けても、真壁さんは下りてこなかった。
ふつう、地獄を抜けた人間は腹を空かせる。原稿を入れたあとは、堰を切ったように飯を食いに来る。「生き返りました」と言いながら、三杯くらい飯をおかわりする。それが、いつもの彼女だった。
締切明けの真壁さんは、別人みたいになる。クマが消えて、血色が戻って、ボサボサだった髪をきちんと結って。「あれ、こんなに綺麗な人だったかな」と、毎回、思う。本人に言うと嫌がるので、言わないけれど。
なのに、その夜は来なかった。
下りてくる気配だけが、何度も階段の途中で止まっては、引き返していった。ぎし、と一段下りて、しばらく止まって、また戻る。その繰り返しを、俺は管理人室から、ずっと聞いていた。
腹は空いているはずだ。なのに、下りてこられない。
そういう夜が、人にはある。腹より先に、心のほうが、参ってしまう夜が。
***
深夜一時。
俺は管理人室で固定電話の脇に座って、手持ち無沙汰に包丁を研いでいた。砥石を滑る刃の、しゃり、しゃり、という音だけが、部屋に響いている。
スマホは持たない。通知に追われる暮らしは、前の職場で終わりにした。だから夜は静かで、家じゅうの小さな物音が、よく聞こえる。
雨戸を打つ夜風の音。柱時計の振り子。小麦の寝息。そういうものに混じって、ときどき、二階から、かすかな物音が落ちてくる。
その夜は、画面をスクロールする指の音が、ずっと続いていた。更新して、見て、また更新して、見て。
その繰り返しの音には、覚えがあった。何かを確かめずにいられない夜の、あの、止まらない指の動き。確かめるたびに、ほんの少しずつ、自分が削れていくと知っていて、それでも、やめられない。
しばらくして、その音に、別の音が混じった。
二階で、すすり泣くような音がした。
気のせいかもしれない。だが、気のせいでないなら、放っておけない。
俺は台所へ立った。
ペンを止めなくていいように片手で齧れるよう紙で巻く。集中を一ミリも乱さない優しさに、締切明けの彼女の心が静かに揺れていきます。この一皿にやられたら、【にこにこ】を! 続きが気になったらブックマークを。




