第1話 餓死寸前の、メンチカツサンド
ソースの滴る音で、手が止まったらしい。
あとから聞いた話だ。本人は覚えていなかった。その日の真壁累が、最後に何かを口に入れたのがいつだったのかさえ、覚えていなかったのと同じくらいに。
俺が知っているのは、廊下に置いた紙包みが、半日後には空になっていたことだけだ。
***
八月の昼下がりだった。
二階の女性居住エリアには上がらない。それが常夜灯の管理人としての俺の鉄則で、だから真壁さんの様子は、いつも階段の下からの気配でしか分からない。
その気配が、三日前から消えていた。
ドアの開く音がしない。水を流す音も、足音もしない。ただ、夜どおし液タブのペンが画面を擦るかすかな音だけが、廊下にこぼれ落ちてくる。
締切だ、と俺はすぐに分かった。
真壁さんは在宅のWeb漫画家だ。締切が近づくと、部屋から一歩も出なくなる。飯を食うことも、寝ることも、風呂に入ることも、ぜんぶ後回しにして、ただ描く。
引っ越してきた当初、俺はそれを知らなかった。三日ぶりに階段を下りてきた彼女が、ふらふらと冷蔵庫の前で崩れ落ちかけたのを見て、肝を冷やしたのを覚えている。
「血糖値が、ゼロなんで」
床に座り込んだまま、彼女は呂律の怪しい声で、そんなことを言った。冗談なのか本気なのか、判別がつかなかった。たぶん、本気だった。
以来、俺は締切のたびに、こっそり様子を窺うようになった。本人に気づかれないように。気づかれると、「気を遣わせてすみません」と、彼女がまた一つ、余計な荷物を背負ってしまうから。
餓死寸前の野生動物、というのが、ゆめちゃんが彼女につけたあだ名だった。失礼な、と思ったが、的を射ているとも思った。
「管理人さん、累さん大丈夫かな」
階段の途中で、まひるさんが心配そうに振り返った。今日は早番だったらしく、もう私服に着替えている。
「昨日の夜、二階のトイレで会ったんですけど。累さん、こう、壁づたいに歩いてて。目も、なんか、うつろで。あれ、大丈夫なやつですか?」
「大丈夫……ではないですけど、いつものことではあります」
「いつものこと……」
「締切の三日目あたりが、いちばん危ないんですよ。一日目はまだ元気で、二日目で生活が消えて、三日目には、自分が人間だってことを忘れる」
まひるさんが、ぞっとした顔をした。
「差し入れ、持っていこうかな……」
「いえ」
俺は首を振った。
「今は、たぶん何を持っていっても気づかないと思いますよ。声をかけたら、かけたぶんだけ、あの人は『すみません』って言いますから。謝らせるために飯を持っていくのは、ちょっと違うかなと」
集中している人の背中ほど、触れてはいけないものはない。俺はそれを、よく知っている。
栄養だけを、そっと置いていく。気づかなくていい。礼もいらない。ただ、餓死だけは、させない。
***
夕方。台所に立った。
冷蔵庫を開けて、合い挽き肉のパックを取り出す。今日のために買っておいたものだ。
玉ねぎをみじん切りにして、飴色になるまでじっくり炒める。火を入れた玉ねぎは、糖が立って甘くなる。それを冷ましてから挽き肉に混ぜ込み、塩、こしょう、ナツメグをほんの少し。
そこからが肝心だった。
挽き肉は、練る。
ボウルに手を突っ込んで、しっかりと、粘りが出るまで。脂と肉が、ねっとりと絡み合って、ひとつになる。乳化、というやつだ。
手のひらに、肉の冷たさと脂のぬめりが移る。だんだん、生地がまとまって、艶を帯びてくる。この感触で、揚げあがりの良し悪しが、もう分かる。こうしておくと、揚げたときに肉汁が逃げずに、衣の内側にとどまってくれるのだ。
小判形にまとめて、空気を抜くように、両手でぱしぱしと打つ。中に空気が残っていると、揚げたときに、そこから割れて、肉汁が逃げてしまう。
薄力粉、溶き卵、パン粉。
パン粉は粗めのものを選んだ。揚げたときのザクッという音は、このパン粉が決める。
油の温度を、指先で確かめる。百八十度。パン粉をひとつまみ落とすと、ぱちぱちと小気味よく散った。
そっと種を沈める。
じゅわ、と油が沸き立つ。衣の表面で、無数の小さな気泡が、生き物みたいに踊りはじめる。
揚げ物の音は、温度を教えてくれる。最初の、勢いよく沸き立つ音。それが落ち着いて、ちりちりと細かい音に変わったら、中まで火が通ったしるしだ。
ぱちぱちと弾ける油の音に、香ばしい匂いが乗ってくる。パン粉の焦げる、こんがりとした香り。揚げ油の向こうから、肉汁の予感が、もう立ち上っていた。
足元で、小麦が鼻を鳴らした。「クーン」と、世にも切なげな声で、揚げ油の鍋を見上げている。垂れた耳の下で、鼻先が、ひくひくと動いていた。
「これは小麦のじゃないよ」
金色の頭を撫でてやると、小麦は不服そうに喉を鳴らし、それでも諦めたように、ベッドのほうへ戻っていった。よだれが、床に点々と落ちている。あとで拭こう。
きつね色になった頃合いで、菜箸でそっと引き上げる。油を切ると、衣がじゅっと小さく鳴いた。
表面に、ぷつぷつと細かい泡が立っている。中で肉汁が、まだ暴れている証拠だ。切るのが、もったいないくらいに。
揚げたての香ばしい匂いが、湯気に乗って、台所から廊下へ、細く流れ出していく。ソースをまとわせれば、この匂いは、もっと遠くまで届くだろう。
二階のドアの向こうまで、届くだろうか。
そのとき、あの野生動物の、擦り切れた鼻先が、ほんの少しでも、ひくりと動いてくれたなら。俺はまだ、その匂いが、彼女の何を変えることになるのかを、知らないでいた。
締切で「血糖値がゼロ」の野生動物に、声もかけず礼もいらないと、栄養だけをそっと廊下に置いていく――その距離の取り方にじんときたら、【にこにこ】か【いいね】を! 揚げたてが誰に届くか、続きはブックマークで。




