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第5話 これを、見てくれる人

「僕は昔、いろんな人の『これが好き』というのを、たくさん選んできたことがあって」


ゆめちゃんが、まばたきをした。


「どんな人が、どんなものを見て、ほっとするか。どんな色が、疲れた人の心をほどくか。そういうのを、ずっと見てきました。だから、分かります」


ふと、昔のことが、頭の隅をかすめた。くたびれた顔で扉をくぐってきた人が、部屋に通した瞬間に、ふっと肩の力を抜く。あの瞬間のために、俺はずいぶん長いこと、色や、灯りや、布の手触りを選んできた。


——でも、それはもう、終わった仕事だ。


「……元、何の人なの」


「ただの管理人ですよ」


俺は、立ち上がって、台所に向かった。それ以上は、言わなかった。言うつもりもなかった。


ただ、彼女の作品の良さだけは、本当のことだったから、それだけは伝えたかった。慰めでも、お世辞でもなく。見えたものを、見えたとおりに。


「お腹、すいてませんか」


「え……」


「焼きおにぎり、作りますよ。すぐできるので」


俺は冷やご飯を握って、形を整えた。きつく握りすぎない。中に空気を残すように、ふんわりと。そうすると、焼いたときに、外はかりっと、中はほろりとほどける。表面に薄く醤油を塗って、網に乗せる。


じゅう、と音がした。


醤油がこげて、香ばしい匂いが立ちのぼる。塗ってすぐの醤油は、まだ尖った塩辛さだ。けれど火に炙られると、角が取れて、奥から発酵した穀物の甘い香りが顔を出す。麹が長い時間をかけて醸した匂いが、最後のひと炙りで一気にほどける。焦げる醤油の匂いというのは、どうしてこう、人の腹を鳴らすんだろう。


おにぎりの表面が、こんがりとあめ色になっていく。縁が、かりっと焦げる。米の一粒一粒が立って、ぱちぱちと小さくはじけた。二度、刷毛で醤油を重ねた。そのたびに、じゅう、と音がして、湯気と一緒に香りが部屋に広がった。香ばしさの奥に、ほのかな甘みがある。米そのものの、甘みだ。


足元で、小麦が「くぅん」と鳴いて、鼻を上げた。


「お前のじゃない」


俺は焼けたおにぎりを皿に乗せて、ゆめちゃんの前に運んだ。外はかりっと、中はほかほかの焼きおにぎり。湯気が、まっすぐ立っている。


ゆめちゃんは、それを両手で持った。あちあち、と言いながら、口元に近づける。湯気が、彼女の眼鏡を曇らせた。慌てて眼鏡を外す彼女の目は、まだ赤い。それでも、一口かじった。


かり、と外側が音を立てた。


外側の、香ばしい醤油の焦げ。その内側の、ふっくらした白い米。焦げの香ばしさと、米の優しい甘みが、口の中で混ざる。


「……っ、美味しい」


今度は、隠さなかった。口にご飯粒をつけたまま、彼女はもう一口、かじった。しばらく、無心で食べていた。


食べる速さが、だんだん落ち着いてきた。最初はかきこむみたいに食べていたのが、後半は、味わうみたいになっていた。一口ごとに、少し間が空く。


俺は、その間に、麦茶をひとつ、彼女の前に置いた。何も言わずに。ゆめちゃんは、それをこくりと飲んで、ふう、と息をついた。


食べ終えるころ、ゆめちゃんはぽつりと言った。


「ねえ、おじさん」


「はい」


「さっきの、色の話」


「はい」


「あれ……わたし、意識してやったの。裏地、ちょっとだけ見えるようにしたの。動いたときに、きれいに見えるように」


彼女の声が、少し湿っていた。


「誰も、気づいてくれなかった。コンテストも落ちたし。フォロワーも減ったし。誰も、見てくれてないと思ってた」


ゆめちゃんは、空になった皿を見つめた。


「でも、いた。一人だけ、見ててくれた人が」


俺は、何も言わなかった。


「数字じゃなくて……これを、ちゃんと見てくれる人が、いた」


彼女は、手の甲で、目元をぐいとぬぐった。


「……べつに、泣いてないけど」


「はい」


「焦げたおにぎりが、目にしみただけ」


「はい。次から、もう少し弱火にします」


ゆめちゃんが、ふっと笑った。それから、皿を流しに運びながら、流しの前で立ち止まって、こちらを振り返った。


「ねえ、管理人さ……」


言いかけて、彼女は唇を結んだ。一瞬、しまった、という顔をして、それから、照れ隠しみたいにわざと言い直した。


「……おじさん、ほんとに、何者なの?」


俺は、首をかしげた。


「何者って言われても。ただの、ご飯が上手なおじさんですよ」


「ぜったい、それだけじゃないでしょ」


ゆめちゃんは、目を細めて俺を見た。さっきまでの赤い目が、今はちょっと面白がっているみたいに光っていた。そういう目で見られても、俺には本当に、心当たりがない。


「さ、夜食、もう一個焼きますか」


「食べる」


即答だった。


「あ、でも、太るからやめとく。……やっぱ食べる」


「どっちですか」


「半分」


俺は、もう一つ握った。


足元では小麦が、まだ皿のほうを未練がましく見ていた。


二階の窓の向こうで、夏の夜が、静かに更けていった。


「誰も見てくれてないと思ってた。でも、いた。一人だけ」――数字じゃなく中身を見てくれた人がいた夜に、ほろりときたら【泣ける】か【にこにこ】を! 「おじさん、ほんとに何者なの?」と目を細める子と、焦げた焼きおにぎりの続きを、ブックマークで一緒に。

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