第3話 何者にも、なれない
その夜も、ゆめちゃんは深夜の共有キッチンに降りてきていた。堰を切ったように、彼女がぽつぽつと話しはじめる。俺は向かいで、ただ黙って聞いていた。
「……」
「うちのクラス、めちゃくちゃ上手い子がいるの。一人。その子の作品見ると、もう、無理って思う。何やっても、あの子には勝てない」
「……」
「で、その子はもうブランドの内定とか取りそうで。みんなどんどん前に進んでて、わたしだけ、何も決まってなくて」
声が、だんだん細くなっていく。昼間の、大人びた話し方じゃない。
「わたし、何者にもなれないんだろうなって。肩書きも、実績も、何もないし。フォロワーだけは多いけど、そんなの、何の意味もないし」
ゆめちゃんは、スマホを裏返したまま、その上に手を重ねた。
「……向いてないのかな。こういうの」
俺は、否定しなかった。「向いてるよ」とも、「そんなことないよ」とも言わなかった。そういう言葉が、いま彼女に必要じゃないことは、なんとなく分かっていた。
「ちょっと、待っててください」
俺はキッチンに入った。鍋に牛乳を注いで、弱火にかける。沸かしてはいけない。膜が張る手前で、優しく温めるのがいい。鍋肌の縁に、細かい泡がふつふつと並びはじめたら、もう火から遠ざける頃合いだ。
ココアの粉を、少量のお湯で先に練る。こうすると、だまにならずに、なめらかに溶ける。粉のままだと、いつまでもざらつきが残ってしまう。砂糖を少し。それを温めた牛乳に溶かし込むと、鍋の中が一気に深い茶色に変わった。
木べらでゆっくり混ぜると、湯気のなかにカカオの香りが立ちのぼる。甘くて、ほんの少しほろ苦い。仕上げに、棚にあったマシュマロを二つ、浮かべる。白いかたまりが、熱で角を失って、ゆっくりと溶けはじめた。
温かい湯気が、カカオの匂いを連れて立ちのぼった。
俺はそれを、ゆめちゃんの前に置いた。
「ホットココアです。眠れない夜に」
ゆめちゃんは、マグカップを見下ろした。表面で、白いマシュマロがゆっくり溶けはじめている。
「……甘いの、太るんだけど」
「カカオには、テオブロミンっていう成分が入ってて」
「は?」
「気持ちをゆるめてくれるそうですよ。温かい飲み物っていうのは、それだけで体が休もうとするので」
ゆめちゃんは、ちょっと呆れたような顔をした。
「おじさん、変なこと詳しいよね」
「料理だけが趣味なので」
彼女は両手でマグカップを包んだ。さっきまで叩いていた指が、今は静かにカップの丸みをなぞっている。
一口、飲んだ。
「……あったかい」
それから、しばらく黙っていた。俺も、何も言わなかった。カウンターの上で、湯気が細く立ちのぼっては消えていく。
「ねえ、おじさん」
「はい」
「諦めたほうが、楽になるのかな」
ゆめちゃんが、マグカップに目を落としたまま言った。
「好きで入ったはずなんだよね、この道。服が好きで、作るのが好きで。なのに、いつのまにか、課題に追われて、比べて、苦しいだけになってて」
彼女は、マシュマロが溶けていくのを、じっと見ていた。
「ずっと、苦しいんだよね。上手い子と比べて、勝手に落ち込んで。だったらもう、好きとか言うのやめて、普通に就職したほうが、楽になれるのかなって」
「……」
「でも、諦めたら、本当に終わる気がして。怖くて、できなくて」
俺は、少し考えた。それから、ゆっくり言った。
「諦めるかどうかは、今夜決めなくていいですよ」
自分でも、思ったより静かな声が出た。
ゆめちゃんが、顔を上げた。
「今夜の君は、疲れてて、お腹がすいてて、上手い子と自分を比べたばっかりで。そんな状態で決めたことは、たぶん、明日の君の本当の気持ちじゃない」
「……」
「だから、今夜は決めなくていい。ココアを飲んで、寝て。決めるのは、また別の日でいいんです」
「……決めなくて、いいの」
「いいんです。明日でも、来月でも。なんなら、来年でも」
ゆめちゃんは、しばらく俺を見ていた。何かを言いかけて、やめて。それから、ふいと目をそらして、マシュマロを一つ、スプーンですくった。
「……おじさんって、なんかさ」
「はい」
「動じないよね。わたしがいくら生意気なこと言っても」
「そうですか?」
「『何が分かるの』とか言われたら、普通もっと、ムッとするでしょ。でもおじさん、全然」
彼女は、溶けかけのマシュマロを口に運んだ。
「なんか、つまんない」
そう言いながら、頬が少し赤かった。ココアが温かいから、かもしれない。
「すみません。年をとると、ムッとする体力もなくなって」
「うわ、出た。おじさんの自虐」
ゆめちゃんが、ちょっとだけ笑った。その笑顔は、昼間のSNSに上げているような、作った笑顔じゃなかった。少し崩れていて、その分だけ、本物に見えた。
こういう顔のほうがいいのに、と思ったが、それは言わなかった。たぶん、言ったら台無しになる。
足元で、小麦が起きてきて、ゆめちゃんの足にぽすんと顎を乗せた。
「うわ、こむぎ、重い」
そう言いながら、彼女は小麦の頭を撫でていた。撫でる手つきが、優しかった。
「……こいつだけは、フォロワー数とか聞いてこないからいいよね」
ぽつりと、そんなことを言った。
俺には、その一言の重さが、なんとなく分かった。きっと彼女のまわりには、数字で人を測る世界が、ずっとあるんだろう。いいねの数。フォロワーの数。コンテストの順位。小麦は、そういうものを一つも持っていない。ただ、撫でてくれる手が好きなだけだ。
「小麦は、君が好きみたいですよ」
「……知ってる」
ココアを飲み終えるころには、ゆめちゃんの目から、さっきまでの赤みが少し引いていた。
「ごちそうさま」
マグカップを流しに運びながら、彼女が小さく言った。
「……管理人さん」
俺は、洗い物の途中で、聞き返した。
「はい?」
ゆめちゃんは、一瞬固まって、それから早口で言った。
「なんでもない! おやすみ!」
階段を駆け上がっていく足音を聞きながら、俺は首をかしげた。いま、なんて呼ばれたんだろう。「おじさん」じゃ、なかった気がする。でも、聞き間違いかな、と思った。深夜は、耳もぼんやりする。
足元の小麦が、空のマグカップのほうを見て、くぅんと鳴いた。
「お前のじゃないって、いつも言ってるだろ」
夜は、少しだけ涼しくなっていた。
「わたし、何者にもなれないんだろうな」に「今夜は決めなくていい」とホットココアを差し出す夜。焦らず、諦めさせず、ただ寄り添う温度にじんときたら【泣ける】か【いいね】を! 「こいつだけは、フォロワー数聞いてこない」と小麦を撫でる手の続きを、ブックマークで。




