表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
18/23

第3話 何者にも、なれない

その夜も、ゆめちゃんは深夜の共有キッチンに降りてきていた。堰を切ったように、彼女がぽつぽつと話しはじめる。俺は向かいで、ただ黙って聞いていた。


「……」


「うちのクラス、めちゃくちゃ上手い子がいるの。一人。その子の作品見ると、もう、無理って思う。何やっても、あの子には勝てない」


「……」


「で、その子はもうブランドの内定とか取りそうで。みんなどんどん前に進んでて、わたしだけ、何も決まってなくて」


声が、だんだん細くなっていく。昼間の、大人びた話し方じゃない。


「わたし、何者にもなれないんだろうなって。肩書きも、実績も、何もないし。フォロワーだけは多いけど、そんなの、何の意味もないし」


ゆめちゃんは、スマホを裏返したまま、その上に手を重ねた。


「……向いてないのかな。こういうの」


俺は、否定しなかった。「向いてるよ」とも、「そんなことないよ」とも言わなかった。そういう言葉が、いま彼女に必要じゃないことは、なんとなく分かっていた。


「ちょっと、待っててください」


俺はキッチンに入った。鍋に牛乳を注いで、弱火にかける。沸かしてはいけない。膜が張る手前で、優しく温めるのがいい。鍋肌の縁に、細かい泡がふつふつと並びはじめたら、もう火から遠ざける頃合いだ。


ココアの粉を、少量のお湯で先に練る。こうすると、だまにならずに、なめらかに溶ける。粉のままだと、いつまでもざらつきが残ってしまう。砂糖を少し。それを温めた牛乳に溶かし込むと、鍋の中が一気に深い茶色に変わった。


木べらでゆっくり混ぜると、湯気のなかにカカオの香りが立ちのぼる。甘くて、ほんの少しほろ苦い。仕上げに、棚にあったマシュマロを二つ、浮かべる。白いかたまりが、熱で角を失って、ゆっくりと溶けはじめた。


温かい湯気が、カカオの匂いを連れて立ちのぼった。


俺はそれを、ゆめちゃんの前に置いた。


「ホットココアです。眠れない夜に」


ゆめちゃんは、マグカップを見下ろした。表面で、白いマシュマロがゆっくり溶けはじめている。


「……甘いの、太るんだけど」


「カカオには、テオブロミンっていう成分が入ってて」


「は?」


「気持ちをゆるめてくれるそうですよ。温かい飲み物っていうのは、それだけで体が休もうとするので」


ゆめちゃんは、ちょっと呆れたような顔をした。


「おじさん、変なこと詳しいよね」


「料理だけが趣味なので」


彼女は両手でマグカップを包んだ。さっきまで叩いていた指が、今は静かにカップの丸みをなぞっている。


一口、飲んだ。


「……あったかい」


それから、しばらく黙っていた。俺も、何も言わなかった。カウンターの上で、湯気が細く立ちのぼっては消えていく。


「ねえ、おじさん」


「はい」


「諦めたほうが、楽になるのかな」


ゆめちゃんが、マグカップに目を落としたまま言った。


「好きで入ったはずなんだよね、この道。服が好きで、作るのが好きで。なのに、いつのまにか、課題に追われて、比べて、苦しいだけになってて」


彼女は、マシュマロが溶けていくのを、じっと見ていた。


「ずっと、苦しいんだよね。上手い子と比べて、勝手に落ち込んで。だったらもう、好きとか言うのやめて、普通に就職したほうが、楽になれるのかなって」


「……」


「でも、諦めたら、本当に終わる気がして。怖くて、できなくて」


俺は、少し考えた。それから、ゆっくり言った。


「諦めるかどうかは、今夜決めなくていいですよ」


自分でも、思ったより静かな声が出た。


ゆめちゃんが、顔を上げた。


「今夜の君は、疲れてて、お腹がすいてて、上手い子と自分を比べたばっかりで。そんな状態で決めたことは、たぶん、明日の君の本当の気持ちじゃない」


「……」


「だから、今夜は決めなくていい。ココアを飲んで、寝て。決めるのは、また別の日でいいんです」


「……決めなくて、いいの」


「いいんです。明日でも、来月でも。なんなら、来年でも」


ゆめちゃんは、しばらく俺を見ていた。何かを言いかけて、やめて。それから、ふいと目をそらして、マシュマロを一つ、スプーンですくった。


「……おじさんって、なんかさ」


「はい」


「動じないよね。わたしがいくら生意気なこと言っても」


「そうですか?」


「『何が分かるの』とか言われたら、普通もっと、ムッとするでしょ。でもおじさん、全然」


彼女は、溶けかけのマシュマロを口に運んだ。


「なんか、つまんない」


そう言いながら、頬が少し赤かった。ココアが温かいから、かもしれない。


「すみません。年をとると、ムッとする体力もなくなって」


「うわ、出た。おじさんの自虐」


ゆめちゃんが、ちょっとだけ笑った。その笑顔は、昼間のSNSに上げているような、作った笑顔じゃなかった。少し崩れていて、その分だけ、本物に見えた。


こういう顔のほうがいいのに、と思ったが、それは言わなかった。たぶん、言ったら台無しになる。


足元で、小麦が起きてきて、ゆめちゃんの足にぽすんと顎を乗せた。


「うわ、こむぎ、重い」


そう言いながら、彼女は小麦の頭を撫でていた。撫でる手つきが、優しかった。


「……こいつだけは、フォロワー数とか聞いてこないからいいよね」


ぽつりと、そんなことを言った。


俺には、その一言の重さが、なんとなく分かった。きっと彼女のまわりには、数字で人を測る世界が、ずっとあるんだろう。いいねの数。フォロワーの数。コンテストの順位。小麦は、そういうものを一つも持っていない。ただ、撫でてくれる手が好きなだけだ。


「小麦は、君が好きみたいですよ」


「……知ってる」


ココアを飲み終えるころには、ゆめちゃんの目から、さっきまでの赤みが少し引いていた。


「ごちそうさま」


マグカップを流しに運びながら、彼女が小さく言った。


「……管理人さん」


俺は、洗い物の途中で、聞き返した。


「はい?」


ゆめちゃんは、一瞬固まって、それから早口で言った。


「なんでもない! おやすみ!」


階段を駆け上がっていく足音を聞きながら、俺は首をかしげた。いま、なんて呼ばれたんだろう。「おじさん」じゃ、なかった気がする。でも、聞き間違いかな、と思った。深夜は、耳もぼんやりする。


足元の小麦が、空のマグカップのほうを見て、くぅんと鳴いた。


「お前のじゃないって、いつも言ってるだろ」


夜は、少しだけ涼しくなっていた。


「わたし、何者にもなれないんだろうな」に「今夜は決めなくていい」とホットココアを差し出す夜。焦らず、諦めさせず、ただ寄り添う温度にじんときたら【泣ける】か【いいね】を! 「こいつだけは、フォロワー数聞いてこない」と小麦を撫でる手の続きを、ブックマークで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ