表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
17/21

第2話 べつに、頑張ってなんかない

その夜、この家で一番年下の住人――ゆめちゃんが、深夜の共有キッチンで、課題を前に頭を抱えていた。俺は焼きたてのはちみつトーストを皿に乗せて、リビングへ運んだ。ゆめちゃんは、まだ突っ伏していた。今度は完全に、額をカウンターにつけて。


「小田切さん」


顔を上げた彼女の前に、俺は皿をそっと置いた。


「これ、余ったので。よかったら」


ゆめちゃんは、皿を見た。それから俺を見た。眉が、きゅっと寄った。


「……いらない。べつに、お腹すいてないし」


「そうですか。じゃあ、置いておきますね。残ったら、明日僕が食べるので」


俺は皿を彼女の手元に寄せて、キッチンへ戻ろうとした。借りを作らせるつもりはなかった。施しでもない。本当に、余ったから。だから受け取りやすいように、そう言うだけでよかった。


背中で、彼女の声がした。


「……おじさんに、何が分かるの」


俺は足を止めた。


「課題とか、就活とか、そういうの。おじさんの時代にはなかったでしょ。今がどんだけ大変か、分かんないでしょ」


振り返ると、ゆめちゃんはこちらを見ていなかった。皿のトーストを、にらむように見ていた。


「分からないですね」


俺は正直に言った。


「君の今がどれだけ大変か、僕には分かりません。分かったふりはしたくないので」


ゆめちゃんが、少し顔を上げた。


「ただ、お腹がすいてると、よけいに何もかも嫌になるのは、知ってます。それくらいは」


返事はなかった。


俺はキッチンに戻って、鍋を片付けた。水を流す音の向こうで、椅子が小さく軋む気配がした。ちらりと振り返ると、ゆめちゃんがトーストを手に取っていた。両手で、包むように持っている。


まだ温かいはずだ。チーズの溶けた断面が、照明の下で艶めいていた。


彼女は一口、かじった。チーズが、糸を引いて伸びる。それを指でからめ取って、口に運ぶ。はちみつが唇についたのを、舌の先でなめた。それから、肩が小さく動いた。何かをこらえるみたいに。


「……熱」


ぽつりと、そう言った。声が少し、湿っていた。


熱いのは、トーストだけじゃなかったらしい。目のふちに、熱いものが少し光っていた。でも、それは言わないでおいた。


俺は何も言わずに、洗い物を続けた。蛇口から落ちる水の音が、ふたりのあいだの沈黙を、ちょうどよく埋めてくれた。食べる姿を、急かしてはいけない。見つめてもいけない。ただ、そこにいればいい。それだけのことだ。


しばらくして、皿の上は空になっていた。


「ごちそうさま」


ゆめちゃんが、ぼそっと言った。


「美味しかった……って、言ってないけど」


「はい」


「言ってないからね」


「はい」


彼女は皿を持って、キッチンの流しまで来た。自分で洗おうとするのを、俺が「やりますよ」と受け取った。そのとき、ゆめちゃんが眼鏡の奥で、ちょっとだけ唇を尖らせた。


「……ノックくらい、してよね」


「すみません。次から、必ず」


俺が素直に謝ると、ゆめちゃんは毒気を抜かれたみたいに、ふいと顔を背けた。


「……っ、もう、いい」


階段を上っていく足音が、いつもより少しだけ軽く聞こえたのは、たぶん気のせいだ。


足元で、小麦がいつのまにか起きていて、空になった皿のあたりをくんくんと嗅いでいた。


「お前のじゃないよ」


くぅん、と小麦が鳴いた。


夜は、まだ少し蒸している。


***


それからゆめちゃんは、深夜の共有キッチンに降りてくるようになった。課題を抱えて、というのが建前なんだろう。実際、いつもタブレットと布を広げている。でも、本当に手を動かしている時間は、そんなに長くない。


一人暮らしの部屋で、夜中に急に押し寄せてくる静けさというものを、俺も知らないわけじゃなかった。誰もいない部屋の天井を見ていると、自分が世界から忘れられたような気がしてくる、あの感じ。たぶん、彼女はそれが嫌で、降りてくる。


俺が管理人室で出汁を引いたり、翌朝の仕込みをしたりしていると、リビングの奥に明かりがつく。それが、合図みたいになっていた。俺は気づかないふりをして、火加減を見る。彼女が降りてくる音は、いつも少しためらいがちだった。


その夜も、午前零時を過ぎたころ、明かりがついた。俺がリビングをのぞくと、ゆめちゃんはカウンターに頬杖をついて、スマホをぼんやり眺めていた。タブレットも布も、今日は出していない。


「……おじさん」


俺に気づくと、彼女は画面を伏せた。


「就活って、何歳から始めるのが普通だと思う?」


唐突だった。俺は手ぬぐいを首にかけたまま、彼女の隣の椅子は引かずに、少し離れて立った。


「さあ。僕の頃とは、ずいぶん違うでしょうから」


「クラスの子がさ、もう動いてるんだよね。インターンとか、ポートフォリオとか」


ゆめちゃんは、スマホの角で、カウンターをこつこつと叩いた。


「わたし、未経験で入ったんだよね、この学校。最初から綺麗に縫える子ばっかりで、入った時点でもう、出遅れてて」


「おじさんに、何が分かるの」に「分からないですね」と正直に返す管理人さん。分かったふりをしない大人に毒気を抜かれる若さに、くすっときたら【笑える】か【にこにこ】を! 「ノックくらいしてよね」と少し軽くなった足音の続きは、ブックマークで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ