第4話 電話が、取れました
その夜。
「今日、電話、一本だけ、取れました」
夕飯の席で、七瀬さんが、小さな声で報告してきた。
俺は、湯のみを置いた。
「そうですか。よく頑張りましたね」
「……でも、すっごい噛みました。声も裏返って」
「いいじゃないですか。取ったんですから」
朝、あんなに指先を冷たくしていた人が、午後、その電話を、自分で取った。噛んでも、裏返っても、取った。それは、すごいことだ。本人が思っているより、ずっと。
七瀬さんは、なぜか、ちょっと泣きそうな顔をして、それから、思いきったように口を開いた。
「あの……周さんって、本当は、何をしてた人なんですか? 今朝の、晩餐会の話とか……」
ほうじ茶を、ひとくち飲んだ。
「昔のことですよ」
それだけ言って、立ち上がり、台所へ戻った。
話すほどのことでもない。今の俺は、この家の台所番だ。それで、じゅうぶんだった。
背中で、七瀬さんの視線を感じた気がしたが、湯気の向こうのことは、よくわからなかった。
***
梅雨が明けて、七月になった。
朝のうちに、庭の笹を一本切ってきて、リビングの隅に立てた。床の間のあたりに、すらりと緑が伸びて、葉先が窓からの風に、さらさらと揺れている。
「七夕ですからね。願い事、書いてください」
色とりどりの短冊と、油性ペンを盆に載せて、テーブルに置いた。赤、青、黄、ピンク。短冊には、もう紐を通してある。こういうのは、紐を通すところから楽しいものだ。
「いいですね、こういうの。映えそう」
ゆめちゃんが、スマホを構えて笹を撮りながら言った。
「ゆめちゃんは何書くの」
「うーん……『フォロワー一万人』とか?」
「現実的ですねえ」
ソファの方からは、怜さんが、ぐったりした声で「『有給が全部消化できますように』」と呟いて、誰にともなく手を合わせていた。仕事帰りのスーツのまま、クッションに顔をうずめている。よほど疲れているらしい。あとで、温かいものでも出そう。
「怜さん、夢がないですね」
「夢だけで生きていけたら苦労しないのよ、ゆめちゃん」
そんなやりとりを横に、七瀬さんが、ピンクの短冊を一枚、手に取った。ペンを持ったまま、しばらく、考え込んでいる。何を書こうか、迷っているのだろう。
それから、何かを書いて――書いてから、ぱっと頬を赤くした。ちらり、と、なぜか台所の方を見る。俺と目が合うと、慌てたように、目をそらした。
そうして、書いた短冊を、二つに折りたたんで、笹のいちばん奥の、見えにくい枝に、こっそり結びつけた。
恥ずかしい願い事だったのかもしれない。若い人の願い事は、人に見られたくないものだろう。俺は、見なかったことにした。
***
「お待たせしました。素麺です」
大きなガラスの器に、氷を浮かべた素麺を運んだ。きん、と冷えた水の中で、白い麺が透き通っている。薬味の小皿には、刻んだみょうがと、生姜と、大葉。そして、星の形に切ったオクラを、ちょこんと添えた。
「わ、お星さま」
ゆめちゃんが声を上げる。
「七夕なので、ちょっとだけ」
我ながら、子どもじみた趣向だ。少し、照れた。
器の底で、氷が、からんと涼しい音を立てる。素麺は、つるつると光って、水の中で、白い天の川みたいに見えた。
七瀬さんが、みょうがと生姜を、つゆの小鉢に、たっぷり放り込んだ。よく食べる人だ。今朝の電話のことは、もう、少し落ち着いたらしい。
「んー、生き返るぅ」と、累さんが、目を閉じてつゆをすする。締切明けの、ボサボサ髪のままで。
「累さん、三日ぶりにまともなご飯食べてません?」
「失礼な。一昨日、ゼリー飲料を飲んだもん」
「それ、ご飯じゃないですよ」
そんなやりとりに、みんなが笑った。
みんなで素麺をすすりながら、笹を眺めて、それぞれの短冊の話で笑い合う。怜さんの『来世はもっと寝たい』に全員が共感し、累さんの『締切が消滅しますように』に、小麦が「くぅん」と同情した。
いい夜だ、と思った。この家に、こういう夜が増えていくのが、俺はいちばん嬉しい。
笹の奥で、七瀬さんがこっそり結んだピンクの短冊が、風に、ちらりと揺れた。二つに折りたたまれて、中身は見えない。
あの子が、あんなに恥ずかしそうに折りたたんだ願い事。それを、俺が翌日、うっかり目にしてしまうことになるとは──このときの俺は、まだ知らないでいた。
「今日、電話、一本だけ、取れました。……でも、すっごい噛みました」。噛んでも裏返っても取った、その小さな一歩を「よく頑張りましたね」と受け取る夜に、じんときたら【にこにこ】か【いいね】を! 七夕の笹に結ばれた、折りたたみの短冊が気になったら、ブックマークで。




