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第5話 七夕の、短冊

事件、というほどのことでもないが。


翌日の昼間、七瀬さんが休みで、リビングでのんびりしていた。俺は、はたきを持って、笹のあたりを掃除していた。葉に積もったほこりを払って、ついでに、ばらけた短冊の紐を結び直す。


そのとき。


風で、短冊が一枚、はらりとほどけて、床に落ちた。


「あ」


拾い上げると、たたまれていたのが、ひらりと開いてしまった。


『この家に、ずっといられますように』


七瀬さんの字だ。昨日、奥の枝に、こっそり結んでいたあの短冊だった。


なるほど、と思った。


ソファの方で、七瀬さんが、息を呑むのがわかった。顔から、さあっと血の気が引いて、それから、ぼっと赤くなる。今すぐ駆け寄って奪い返したそうな、それでいて、足がすくんで動けないような、妙な顔をしている。


そんなに恥ずかしがらなくても、いい願い事なのに。


「七瀬さんの、ですか」


「そっ……それは、その」


「いい願い事ですね」


俺は、心から、そう思った。


「俺もね、思ってるんですよ。七瀬さんたちが、この家でずっと、安心して暮らせたらいいなって。登美さんも、きっとそれを望んでます」


「……は、はい」


「叶うといいですね、ほんとに」


そう言って、その短冊を、今度はいちばん高い、目立つ枝に、丁寧に結び直した。隠しておくには、もったいない願いだ。よく届くように、と思って。


七瀬さんが、なんとも言えない顔で、こっちを見ていた。笑っているような、泣きそうなような。


「……周さんって」


「はい?」


「いえ……なんでも、ないです」


口をひらきかけて、けれど、首を振った。耳まで赤い。


風邪でも、ひいたんだろうか。昨日から、よく頬が赤くなる。素麺で、お腹を冷やしたのかもしれない。あとで、何か温かいものを出してやろう、と思った。


笹のいちばん高い枝で、七瀬さんの短冊が、誇らしげに揺れていた。


***


その夜。


寝る前に、ホットミルクを淹れて、七瀬さんに出した。昼間、顔が赤かったのが、気になっていたのだ。


七瀬さんは、カップを両手で受け取って、それから、なぜか、もじもじしはじめた。


「あの……周さん。今日、ちょっと、いろいろ落ち込んじゃって」


「あらら。お仕事ですか?」


「ううん……うまく、言えないんですけど」


両手を、ぎゅっと胸の前で握って、上目遣いに、俺を見た。


「……ぎゅって、して、慰めてもらえませんか」


ふむ、と思った。


慰めてほしい、ということだろう。落ち込んでいる若い人には、よくあることだ。なら、いちばんよく効くものを、用意してやらないといけない。


俺には、心当たりがあった。とっておきが。


「わかりました。とっておきの【ぎゅっ】を、どうぞ」


足元で、へそ天になって寝ていた小麦を、ひょいと抱き上げる。金色の、もふもふの、あたたかい大型犬。それを、そっと、七瀬さんの腕の中に預けた。


「小麦、よしよししてあげてください。これがいちばん、効きますよ」


我ながら、いい処方だと思った。落ち込んだ夜に、もふもふのあったかい犬。これに勝る慰めを、俺は知らない。


ところが、七瀬さんは、小麦を抱えたまま、なぜか、ぽかんとしている。それから、みるみる、顔がくしゃっとなった。


「……ワンちゃんは、可愛いですけど……でもぉ……!」


半泣きで、そう叫んだ。


おや、と思った。気に入らなかっただろうか。いや、小麦を、しっかり抱きしめているところを見ると、嫌いなわけではなさそうだ。


小麦が、腕の中で、ぺろりと、七瀬さんの頬を舐めた。


「気に入ってもらえて、よかった」


俺は、ほっとして、台所へ戻った。やはり、もふもふは効く。腕の中の小麦が、「くぅん」と、なにか言いたげに鼻を鳴らしていた。


***


しばらくして、リビングをのぞくと。


七瀬さんは、もう、泣き止んでいた。ホットミルクのカップを両手で包んで、湯気を、ふうっと吹いている。もふもふの小麦に顔をうずめて、何が可笑しいのか、こっそり、ふふっと笑っていた。


よかった。落ち着いたらしい。


ホットミルクは、効く。もふもふも、効く。落ち込んだ夜には、この二つだ。俺の見立ては、間違っていなかった。


そういえば、と思い出す。


ひと月前。初夏のはじめ。あの頃の七瀬さんは、毎晩、目元を赤くして帰ってきていた。コンビニの袋を提げる元気もなく、玄関で、長いこと小麦を撫でていた。


それが今は、こうして、笑っている。


人は、変わる。ちゃんと食べて、ちゃんと眠って、笑える夜が積もっていけば、だんだん、前を向ける。俺は、台所で、それを横から見ているだけでいい。


「……この家に来て、よかった」


小麦に顔をうずめたまま、七瀬さんが、ぽつりと呟くのが聞こえた。


その一言で、じゅうぶんだった。


小麦が、同意するように、尻尾を、ぱたん、と一回振る。


笹のいちばん高い枝では、七瀬さんの短冊が、夜風に、さらさらと揺れていた。


『この家に、ずっといられますように』


叶うといい、と、俺も思った。


『この家に、ずっといられますように』――こっそり隠した願いを、管理人さんは「もったいない」と一番高い枝へ結び直す。そして「ぎゅって慰めて」に、もふもふの小麦をそっと差し出す“処方”に、笑って泣いたら【笑える】か【泣ける】を! 積もっていく笑顔の夜を、ブックマークで一緒に。

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