第3話 声だけが、全部になる
「気にしちゃいますよね、そういうの」
ことん、と、まな板にフライ返しを置いた。
「相手の顔が見えないぶん、声だけが全部になる。聞き返すのも勇気がいるし、怒ってる人の声って、ずっと耳に残りますしね」
七瀬さんが、目を見開いた。それから、肩から、すっと力が抜けるのがわかった。詰めていた息を、そっと吐き出すように。
何を、そんなに身構えていたのだろう。たぶん、「気にしすぎだよ」とか「慣れだよ」とか、そういうのを言われると思っていたのかもしれない。
俺には、言えなかった。怖いものは、怖い。それを「慣れろ」で済ませられるなら、誰も苦労しない。
「はい、できましたよ」
目の前に、丼を置いた。
つやつやと照りの出た豚肉を、ご飯の上に、これでもかと敷き詰めてある。タレを吸ったご飯。脇には、千切りのキャベツ。湯気と一緒に、生姜の効いた甘辛い匂いが、ふわっと立ち上がる。タレの照りが、朝の光を受けて、てらてらと光っていた。豚肉の縁が、ほんの少し焦げて、香ばしい。
「豚の生姜焼き丼です。今日はガッツリいきましょう」
「朝から、こんなに……」
「いいんです。豚肉はね、疲れたときの味方なんですよ」
自分のぶんのお茶を淹れながら、独り言みたいに続けた。
「豚肉のビタミンB1って、他のお肉の何倍も多くて。生姜とか玉ねぎと一緒に食べると、吸収がぐっと良くなるんです。今日みたいに、気合いを入れたい日には、ちょうどいい」
七瀬さんが、箸を取った。タレの染みた豚肉と、熱々のご飯を、一緒に口へ運ぶ。
その瞬間、止まっていた箸が、動きはじめた。一口、また一口。さっきまで、お腹に入らないと言っていたのが、嘘みたいに。
「……おいしい」
ぽつりと、零した。
ご飯粒のひとつまで、惜しむように食べてくれる。作った身には、これがいちばん嬉しい。
食べているあいだ、七瀬さんの顔から、強張りが消えていた。たぶん、ほんの少しのあいだだけ、怖いことを、忘れていられたのだろう。あたたかいものが腹に入ると、そういうことが、起きる。不思議なものだ。
***
食べ終わるころには、頬に、少し血の気が戻っていた。
それでも、また指先を擦り合わせている。午後のことを、思い出したのかもしれない。七瀬さんは、丼に残ったタレを箸の先でなぞりながら、ぽつりと言った。
「……周さんは、緊張とか、しないんですか。なんか、いつも落ち着いてて」
落ち着いて見えるなら、それは歳のせいだ。若い頃の俺は、もっとひどかった。
「俺もね」
ゴミ袋の口を縛りながら、答えた。ちょうど、燃えるゴミの収集日で、その朝に出すぶんをまとめていた。
「失敗、山ほどしてきましたよ。だから、わかります」
「周さんでも、失敗するんですか」
「しますよ。いっぱい」
そういえば、と思い出したことがあった。ずいぶん昔の話だ。
「某国の晩餐会を、一人で仕切ったときなんかね。緊張しすぎて、本番前に、厨房の裏で本気で吐きましたから」
七瀬さんの箸が、ぴたりと止まった。
「……え?」
「数百人ぶんの料理と、各国の要人の席次と、苦手な食材の確認と。全部、間違えたら国際問題ですからね。胃がもう、きゅーっと」
「ぼ、晩餐会……? 要人……? 各国の……?」
七瀬さんが、同じ単語を、ぽろぽろと、繰り返しはじめた。目が、丸い。なにか、頭の中で計算でもしているような顔だ。
「ええ。今思えば、よく吐いただけで済んだなあって」
しみじみと、麦茶を飲んだ。あれは本当に、生きた心地がしなかった。
「だ、だい……っ、それって、すごい、人たちの……?」
「昔のことですよ」
俺は、縛ったゴミ袋を持って、玄関の方へ運んでいった。今出さないと、収集車に間に合わない。
「ちょっと、待ってください、周さん。今の話、もっと――」
「あ、生姜焼き、冷めないうちに食べてくださいね。タレ、もう少しかけます?」
七瀬さんは、丼を持ったまま、固まっていた。
なにか、まずいことを言っただろうか。ゴミ出しのついでの、昔話のつもりだったのだが。若い人には、退屈な話だったかもしれない。
足元の小麦が、七瀬さんを見上げて、首をかしげていた。お前も、なんだと思ってるんだ、その顔は。
「電話が鳴るのが、怖いんです」に「慣れろ」と言わない管理人さんが、ゴミ出しのついでに「某国の晩餐会で緊張して吐いた」とポロッ。この途方もない励ましにフリーズしたら、【びっくり】か【笑える】を! 「もっと詳しく!」と食いつく新人さんの続きは、ブックマークで。




