第2話 涙の味の、オムライス
スプーンを入れると、とろとろの卵が、チキンライスにからむ。
七瀬さんが、一口、食べた。
その瞬間、スプーンを持つ手が、止まった。
何か言いかけて、けれど言葉にならないようだった。唇を結んで、もう一度、皿を見下ろす。睫毛が、震えている。
「……っ」
ぽろ、と一粒、皿の上に落ちた。それから、もう一粒。ケチャップの赤い線の上に、透明なものが、にじんでいく。
「……すみ、ません」
声が、震えていた。
俺は、慌てなかった。何があったのかも、聞かなかった。こういうときに理由を問い詰めるのは、傷口を指で押すようなものだ。ただ、向かいの椅子を引いて、静かに座った。
何か、まひるさんが、ずっと我慢してきたものが、この一皿でほどけてしまったのだろう。それが何かは、わからない。わからないけれど――たぶん、この子は、今日まで、たくさん頑張ってきた。
「今日も一日、よく頑張ったね」
ぽつりと、言った。
「数字とか、成績とか。そういうのが全部じゃないですよ」
七瀬さんは、顔を上げられないようだった。肩が、小さく震えている。
「七瀬さんが今日、会社に行って、ちゃんと帰ってきた。それだけで、もう、十分すごいことなんです。俺はそう思いますけど」
外で何があったのかは、知らない。営業の世界が、数字で人を計る場所だということくらいは、なんとなく想像がつく。届かなかった、と、たぶん、そういう日なのだろう。
けれど、布団から起き上がって、スーツを着て、会社に行って、また帰ってきた。それだけのことを、俺は、本気で、すごいと思う。世辞でも慰めでもなく。
俺自身、それすらできなくなった時期が、昔、あったから。
七瀬さんは、ついに、声を上げて泣いた。
小麦が、「くぅん」と鼻を鳴らして、まひるさんの膝に顎を乗せた。お前は、こういうとき、本当にいい仕事をするな。
***
泣くだけ泣いたあとのオムライスは、半分くらい冷めていた。
それでも、七瀬さんは、最後の一口まで、ちゃんと食べてくれた。冷めても、おいしそうに食べてくれるのが、作った身には、いちばん嬉しい。
「……あの」
ティッシュで目元を押さえながら、七瀬さんが聞いてきた。
「ちゃんと食べてなかったの、なんで、わかったんですか」
俺は、空になった皿を下げながら、笑った。
「顔に出てましたよ」
それだけだ。長く人を見る仕事をしていると、顔色や、声の張りや、手ぶらで帰ってくることくらいで、だいたいのことは見えてしまう。それを言葉にして問い詰めないだけで。
七瀬さんは、なぜか、また少し泣きそうな顔をして、慌ててお茶を飲んだ。
俺は、よくわからなかった。何か、変なことを言っただろうか。
足元では、小麦が、七瀬さんのスリッパに顎を乗せたまま、すうすう寝息を立てていた。今日も、いい働きだった。
***
朝のキッチンで、フライパンを揺すっていた。
じゅう、と豚肉が鳴って、甘辛いタレの匂いが、リビングいっぱいに広がっていく。生姜の効いた、香ばしい湯気。これを嗅いで腹が鳴らない朝はないはずだ、と俺は思っている。
ところが。
食卓の七瀬さんが、だし巻き卵をひとくち食べて、また箸を置いた。
おかしいな、と思った。だし巻きは、七瀬さんの好物だ。いつもなら、もう一切れ、もう一切れ、と手が伸びる。それが今朝は、ひとくちきりで止まっている。指先を、しきりに擦り合わせていた。六月だというのに、寒いのだろうか。
「七瀬さん、箸が止まってますよ」
声をかけると、七瀬さんは、はっとしたように顔を上げた。
「……すみません。なんか、お腹に入らなくて」
「なにか、ありました?」
聞くと、七瀬さんは、少しためらう顔をした。言おうか言うまいか、迷っているような。それから、こちらの顔を、おそるおそる、うかがうように見た。
「電話が……鳴るのが、怖いんです」
言ってから、ぱっと頬が赤くなった。
「変ですよね。たかが電話なのに。今日、クレームの電話を取らなきゃいけなくて。想像しただけで、心臓がばくばくして」
胸のあたりを、片手で押さえている。本当に、今、鼓動が速くなっているのだろう。想像しただけで、そうなる。それくらい、こわいのだ。
俺は、笑わなかった。笑うようなことじゃない。
ひと口食べた瞬間、ケチャップの赤い線の上に、ぽろりと透明な粒。「会社に行って、ちゃんと帰ってきた。それだけで、もう十分すごい」――張りつめた糸がほどける夜に、ほろりときたら【泣ける】を! この子の明日を、ブックマークで見届けてください。




