第1話 トイレで泣く、新人さん
夕方のキッチンで卵を割っていると、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま、小麦」
か細い声だった。続いて、小麦が尻尾で床を叩く、ぱたぱたという音。あの子がいつも、いちばん先にお出迎えに行く。金色の大きな体を、住人の足にぐいぐい擦りつけるのが日課だ。
七瀬さんだ。
柏木 周、四十二歳。この大正モダンの女性専用シェアハウス『常夜灯』で、住み込みの管理人をやっている。といっても、やっていることは賄いと掃除と修理くらいのもので、要するにこの家の台所番だ。
七瀬まひるさんは、不動産の営業をしている若い人で、確か入社二年目だと言っていた。毎朝、髪をきれいに巻いて、背筋をぴしっと伸ばして出社していく。
その七瀬さんの「ただいま」が、今日は、いつもと少し違った。
俺は手を止めて、廊下の方をうかがった。しゃがんで小麦を撫でている背中が見える。撫でる手が、長い。なかなか、立ち上がらない。小麦の毛に顔を埋めるみたいに、じっとしている。
***
「お帰りなさい、七瀬さん」
声をかけると、七瀬さんは、ぱっと顔を上げた。
「ただいま、です」
笑っていた。きちんと、いつもの営業スマイルだ。けれど、その目元が、ほんの少しだけ、赤い。睫毛のあたりが、湿っている気がした。化粧で隠してはいるけれど、長く誰かの顔を見てきた人間には、そういうのは、なんとなくわかる。
それに、手が空っぽだった。
「……今日は、コンビニで何も買ってこなかったんですね」
「え」
七瀬さんは、自分の手元を見て、少し驚いたような顔をした。いつもなら、帰り道のコンビニで、おにぎりかカップ麺を提げて帰ってくる。それすら、今日は買う気力がなかったのだろう。手ぶらだ。
買い物をする元気もない日というのは、たいてい、ろくなことがなかった日だ。
俺はそれ以上、何も聞かなかった。何があったんですか、とは。聞いてほしくない日に聞かれるのは、しんどい。それは、嫌というほど知っている。
「ちょうどよかった。座っててください。すぐできますから」
コンロの火をひとつ点けて、冷蔵庫から卵を取り出した。
こういう日は、説明よりも、まず腹に何か入れてもらうのがいい。空きっ腹で考え込むと、人はどこまでも暗い方へ落ちていく。逆に、温かいものが胃に入ると、それだけで少し、世界の見え方が変わったりする。
不思議なものだ。
***
ことこと、と鍋が鳴る。
七瀬さんは、大きな食卓に座って、こちらをぼんやり眺めていた。足元に小麦が、どすんと寝そべる。あの重みは、たぶん、わざとだ。落ち込んでいる人のところへ行きたがる。賢い犬だ。
フライパンにバターを落とすと、じゅう、と溶けていい匂いが立つ。玉ねぎを刻んで、鶏肉と一緒に炒める。ご飯を入れて、ケチャップをくるりと回しかける。白かったご飯が、湯気を立てて、つやつやした赤に変わっていく。
ちらりと、七瀬さんの方を見た。さっきまで、お腹なんて空いていない、という顔をしていた。それが、匂いが届くあたりで、ほんの少し、喉が動いた。お腹の底のあたりに、そっと手をやっている。本人は気づいていないかもしれないが、体は正直だ。
ちゃんと、お腹は空いている。生きている証拠だ。それでいい。
卵を溶いて、温まったフライパンに流し込む。じゅわ、と縁が固まる。小刻みに揺すって、菜箸の先で真ん中を寄せていく。
「卵って、六十度くらいから固まりはじめるんですよ」
別に教えるつもりもなく、口から出た。
「だから、強火で一気にやっちゃだめなんです。半熟のとろっとしたところで、火から下ろす。そこの見極めだけ」
七瀬さんは、何も言わずに、俺の手元を見ていた。じっと。逃げ場を探すみたいに、何かに目を留めていたいのかもしれない。それなら、いくらでも見ていてくれていい。
チキンライスの上に、半熟の卵を滑らせる。包丁の背でそっと真ん中をなぞると、黄色い膜が割れて、とろりと両側に流れた。
「わ」
七瀬さんが、小さく声を漏らした。その声が、今日初めて聞いた、素の声に思えた。
ケチャップで赤い線を一本。湯気が立つ。
「特製オムライスです。お待たせしました」
湯気が、七瀬さんの顔のあたりで、ゆらりと揺れた。ケチャップの赤い線を、じっと見つめている。スプーンを持つ手は、まだ、動かない。
その目元が、また、ほんの少し、潤んだ気がした。なぜだろう、と俺は思った。まだ、一口も、食べていないのに。
手ぶらで帰ってきた新人さん。買い物する元気もない日は、たいていろくなことがなかった日だ――何も聞かず、ただ卵を割りはじめる管理人さんの気づきに、そっと胸を掴まれたら【いいね】か【にこにこ】を! とろりと流れる半熟卵の続きは、ブックマークで。




