第5話 帰ってきたく、なりますね
リビングを覗くと、ゆめちゃんが、ソファの陰から、何かを小麦の口元に運ぼうとしていた。俺と目が合う。
「……っ、な、何でもないですー」
ぱっと手を引っ込めて、口笛を吹くふりをする。下手すぎる。
次の夜は、まひるさんだった。階段の途中で、こっそり小麦を呼び寄せて、ポケットから何かを出そうとしていた。俺がキッチンから顔を出すと、
「ち、違うんです! これは、ただの、犬用の……あ、いえ、何も……」
しどろもどろになって、逃げていった。
累さんに至っては、もっと大胆だった。深夜、原稿に詰まった累さんが、「気分転換」と称してキッチンに現れ、俺の目を盗んで小麦のベッドに近づき――そこで、ぴたりと止まった。ベッドの横に、俺が置いておいた貼り紙に気づいたのだ。
『おやつ禁止中。先生との約束です。 ――小麦より』
その横には、肉球にインクをつけて押した小麦の前足のスタンプが、ぺたりと添えてある。
「……ずるい。その手はずるい」
累さんが、貼り紙を見つめて、うめいた。
「これ見たら、あげられないじゃない……」
俺は、笑いをこらえながら、キッチンの奥で聞いていた。
極めつけは、四人がそろってしまった夜だった。俺が買い出しから戻ると、リビングのドアの前に、四人が固まっていた。まひるさんが見張り役で廊下を覗き、ゆめちゃんが手にチーズの欠片を持ち、遠野さんが「ここは私が」と前に出て、累さんが「作戦名・小麦救出」とか言っている。
「……何をしてるんですか」
俺が声をかけると、四人が、びくっと跳ねた。
「か、管理人さん! 早かったですね!」
「いや、これは、その、小麦が、寂しそうだったから……」
「ぐ、偶然、集まっただけで……」
口々に言い訳をする。けれど、ゆめちゃんの手のチーズは、隠しきれていなかった。
スパイ映画のような攻防が三日も続いた頃。俺は、ある事実に気づいた。
夜中、いちばん小麦に甘いのは――俺だった。
片付けのあと、小麦が足元に来て、あの目で見上げてくる。「くぅん」と鳴く。俺の手は、自然と、戸棚のほうに伸びかけて――いや。
俺は、自分の手を止めた。
そうだ。獣医に体重を指摘されたあの日。先生は、こう付け加えていた。「特に、いちばん長く一緒にいる人が、無意識にあげがちなんですよ」と。
俺は、しばらく、自分の手のひらを見つめた。
……いちばん、あげていたのは、たぶん、俺だ。
「……すまん、小麦」
俺は、ぽつりと謝った。
小麦は、何も気にしていない様子で、ヘソ天になって寝転がった。
翌日。俺は、台所に立った。
犬用の、安全なおやつを作ることにしたのだ。さつまいもを蒸して、薄く切って、低温のオーブンでじっくり乾かす。砂糖も塩も、何も入れない。さつまいもは、低い温度でゆっくり火を入れると、でんぷんが、麦芽糖に変わっていく。だから、何も足さなくても、噛むほどに、ほのかに甘くなる。犬にも、人にも、優しい甘さだ。
オーブンの扉の向こうで、さつまいもが、少しずつ縮んで、飴色になっていく。庫内から漏れてくる、ほっくりした甘い匂いに、小麦がオーブンの前に陣取って、じっと待っていた。しっぽが、期待で揺れている。
「もう少しだぞ、小麦」
俺が言うと、小麦は「くぅん」と返事をして、また、扉を見つめた。
ついでに、住人たちのために、豚汁を仕込んだ。梅雨寒で、少し冷える夜だった。豚肉のビタミンB1は、疲れた体に効く。大根、人参、ごぼう、こんにゃく。根菜を順番に炒めて、出汁を張って、ことこと煮込む。味噌を溶くのは、火を止める直前。香りを飛ばさないためだ。
湯気が、キッチンいっぱいに広がった。
その匂いに釣られて、住人たちが、一人、また一人とリビングに集まってきた。
「いい匂い……」
まひるさんが、目を細める。
「豚汁? やった」
ゆめちゃんが、いそいそと席についた。累さんも、ブランケットを引きずって出てきた。
俺は、みんなに豚汁をよそった。そして、小皿に、できあがった犬用のさつまいもチップを載せて、小麦の前に置いた。
「小麦。今日からは、これだ。砂糖も塩も入ってない。これなら、いくら食べても大丈夫」
小麦が、ふんふんと匂いを嗅いで、ぱくりと食べた。
しっぽが、ぶんぶん振れた。
「……喜んでる」
遠野さんが、笑った。
「よかったね、小麦」
それから、住人たちは、豚汁をすすりながら、口々に白状した。
「私、昨日も、こっそりあげようとしてました」とまひるさん。
「私は三回」とゆめちゃん。
「私は、貼り紙で阻止された」と累さん。
「……」
みんなの視線が、俺に集まった。
「管理人さんは?」
俺は、豚汁の椀を持ったまま、目をそらした。
「……すみません。偉そうに禁止なんて言っておいて……よくよく考えたら、いちばんあげてたの、たぶん、俺です」
リビングが、どっと笑いに包まれた。
その輪の中で、遠野さんが、いつもより、ずっと柔らかい顔をしていた。会社では一分の隙もない人。家でも、初めて来た頃は、どこか張り詰めていた人。その人が、いま、小麦のさつまいもチップを一枚つまんで(人間も食べられる)、しみじみと言った。
「……この家、なんか」
椀の湯気の向こうで、遠野さんが小さく笑う。
「帰ってきたく、なりますね」
俺は、何も言わずに、彼女の椀に、豚汁をもう一杯、よそった。
小麦が、満足そうに、ヘソ天で眠っていた。
スパイ映画のような攻防の末、いちばん小麦に甘かったのは――俺だった。しれっとオチる管理人さんの自白にクスッときたら【笑える】か【にこにこ】を! 「帰ってきたく、なりますね」の柔らかな笑顔を、ブックマークで一緒に見守ってください。




