第64話『崩落』 Side:商人
宿は西区の裏通りにある小さな木造で、南東区の石造りを出た夜のうちに移った。名前は別のものを使い、顔を知らない宿主に部屋代を払った。
荷は小さな革鞄ひとつ——金貨と書類だけだ。それだけあれば次の街で動ける。
(二、三日で西門を出る)
守備隊が男の名前を掴んでも、南東区の石造りに来れば空だ。帳簿は燃え倉庫の在庫も片付けてあるから、追う手がかりが何もなければ次第に熱が冷める。
朝、助手が宿を訪ねてきた。
「昨夜のうちに全部燃やしました。倉庫も空にしています」
「お前はもう関係ない。今日から顔を出すな」
助手が少し間を置く。
「俺の分の金は」
「払う」
小袋を渡す。助手が中を確かめて出ていく。
これで動ける人間はいなくなった。一人だ。
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昼前、路地の角から様子を見る。
南東区の石造りの前に守備隊が二人立っているが、予想の範囲だ。中を調べても何も出ない——名前と住所だけでは追えないはずだった。
ただ、一人が紙を持って周囲の住人に何か聞いている。
(聞き込みか)
顔が割れているかどうかが問題だ。天秤座の担当者は顔を知っていて、守備隊に伝わっているとすれば街の中にいる間は動けない。
足を止めずに路地を抜け、宿に戻る。
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午後、助手から伝言が届いた——助手の知り合いを使った迂回路で、正体を明かさない形で。
「当事者の男が動きました。緑の雫で飲んで具合が悪くなったと冒険者ギルドの酒場で話したようで、聞いていた駆け出しが複数いたと」
(よし)
刻印があっても飲んだ後で具合が悪くなったという話が広まれば、刻印自体への信頼が崩れる。緑の雫の客が離れれば、自分がいなくなっても目的は達する。
ただ続きがあった。
「ただ、その話を聞いていた冒険者の一人が、それはおかしいと言い出したようです。緑の雫のポーションで具合が悪くなったという話が最近急に出始めたのはなぜか、と」
男が伝言の紙を折る。
(冒険者か)
酒場の話を鵜呑みにしない人間がいた。ひとりが疑い始めれば話が逆方向に広がる可能性があり、当事者を一人立てただけでは足りなかったかもしれない。
窓の外、通りに夕暮れが差し始めている。
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夕方、宿の主人が声をかけてきた。
「お客さん、ちょっとよろしいですか」
振り向く。主人の顔が少し硬い。
「今日、守備隊の方が来まして。近くで調べ物をしているようで、宿泊客の確認をしてほしいと」
「何か問題があるか」
「いえ、ただ名前と顔を見せてほしいと言われていて。明日の朝に来るとのことで、お伝えしておこうかと思いまして」
「分かった」
主人が下がる。
(明日の朝)
今夜のうちに出る必要がある。宿の名簿には偽の名前を書いたが、顔が割れているなら名前が違っても引き止められる。
革鞄を手に取る。金と書類は全部入っている。
西門は夜でも通行できる。馬は持っていないが、徒歩で夜明けまでに農地の外壁を抜けられれば、次の街まで二日で着く。
立ち上がって上着を羽織る。部屋を出る前に一度振り返る——置いていくものは何もない。
階段を下り、宿の裏口から路地に出る。
人通りの少ない道を選んで西の方角に向かい、街灯の明かりを避けながら壁沿いを歩く。西門まで、あと少しだ。
角を曲がったところで、前方に人影が二つあった。
守備隊だ。
足を止める。引き返すか、そのまま歩くか、一瞬で判断しなければならない——
後ろから、扉を叩く音がした。




