第63話『綻び』 Side:商人
朝の路地に、守備隊の二人が立っていた。
「トリウスか」
荷袋を肩にかけた男が一瞬止まる。走ろうとした足が、路地の出口に先回りしていたもう一人に塞がれる。
「商業ギルドの依頼だ。同行してもらう」
男が荷袋を下ろして、静かに両手を出した。
荷袋の中には今日売る予定だったポーション瓶が十二本入っていた——もちろん刻印はない。守備隊の一人がそれを確認して、紐で縛る。
「これは証拠として預かる」
男は何も言わなかった。言えることが何もなかった。
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天秤座の調査室は、受付から奥に通された先にある。窓のない石造りの部屋で、卓を挟んで担当者が座っていた。
「座れ」
トリウスが椅子を引く。荷袋は入口で預けてある。
担当者が書類を広げる。既に何か書いてあるが、どこまで把握されているのか見ただけでは分からない。
「仕入れ先を聞く。複数の商店に粗悪なポーションを流していたな——素材はどこから来ていた」
「ポーションの仕入れ先なんて、いくつもある。どれのことか分からない」
「緑の雫に色を似せた偽物で、今年の初秋から流通し始めている。お前が持ち込んだ商店を五軒確認している」
五軒——正確な数字だった。誤魔化せる余地がどこにあるか、頭の中で探す。
「その商店に持ち込んでいたのは確かか」
「……持ち込んでいた」
「仕入れ先は」
少し間を置いた。答えれば誰かを売ることになるが、黙っていても、もう手が届いているのだと分かる。
「……独自に仕入れたものじゃない」
「誰から」
「南東区の商人だ。緑の雫の客を奪えと言われて粗悪品を安く仕入れ、刻印のない瓶に詰め替えて流した——俺はただ運んだだけだ」
担当者が手を止めずに書き続ける。
「詰め替えはどこでやっていた」
「男の倉庫だ。俺は完成した状態で受け取っていた」
「住所は」
「南東区の、大通りから二本入った角の石造りだ。一階が倉庫で、二階が住居になっている」
「他に動いていた人間は」
「俺が直接知っているのはその商人だけで、向こうから声をかけてきた。上に誰かいるかどうかは知らない」
担当者がペンを置いて、一度こちらを見る。
「以上か」
「……以上だ」
書類を折りたたんで、担当者が立ち上がる。
「しばらくここにいてもらう。守備隊が商人の身柄を確保するまで動けない」
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部屋を出されて、廊下の椅子に座らされた。守備隊の一人が壁際に立っている。
廊下の奥の窓から中庭が見えた。秋の光が石畳に落ちている。
(男に声をかけられたのは、いつだったか)
夏の終わり——行き場もなく酒場に入って安い麦酒を飲んでいた夜だった。隣に座った男が自然な流れで話しかけてきて、仕事の話を持ちかけるには丁寧すぎる口調だったが、金の話になると急に数字が具体的になった。
(断れなかった)
断れない理由があった——借金だ。行商の稼ぎが続かず仕入れを間違え、売れない季節が重なって宿代が払えない月も続いて、気づいた頃には返せない額になっていた。
男はそれを知っていた。最初から調べた上で近づいてきたのだと、今になれば分かる。
(断れば、別の形で詰められていた)
そう思いたかっただけかもしれない。ただ当時は、断るという選択肢が頭に浮かばなかった。
仕事の内容は単純だった——男の倉庫で受け取った瓶を指定された商店に持ち込み、一本いくらの歩合をもらって断った商店は報告する、それだけだ。緑の雫のポーションだと客に言えと言われたが、そこまでは自分の口ではやれなかった——値段を見れば察する客の方が多かった。
(ただ運んだだけだ)
さっきそう言ったが、信じてもらえる気はしない。実際、ただ運んだだけだとしても、流通させた事実は消えない。
窓の外、石畳に落ちた光が少しずつ動いている。
(もう終わりだ)
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南東区の石造りの二階、男が机に向かっていた。
助手が入ってくる。
「トリウスが今朝、守備隊に連れていかれました」
手が止まる。
「天秤座か」
「おそらく。商業ギルドの依頼という話を路地の住人が聞いています」
男が少しの間、机の上の紙片を見たまま動かない。
(早かった)
刻印を入れた段階で調査が本格化すると踏んでいたが、守備隊が動くまでにはもう少し時間があると思っていた。天秤座の動きが想定より速い。
「トリウスはどのくらい知っている」
「俺の名前と住所だけです。倉庫の場所も知っている」
「話すか」
「話すと思います。あの男は脅しに耐えるような人間じゃなく、借金で首が回らなくて動いていた行商人なので庇う義理もない」
男が紙片を折りたたんで引き出しにしまう。
「今夜中に動く」
「どこへ」
「別の街に出る。ここにいれば守備隊が来るから——」
立ち上がって窓の外を見る。通りに人が行き交っている。
「偽の当事者はもう動いている。俺がいなくなっても、あの話は勝手に広がる」
「引き続き効果は出ますか」
「出る。緑の雫のポーションを飲んで具合が悪くなったと名乗り出る人間がいれば刻印があっても客は疑う——金を払ってある分は動くから、後は向こうで勝手にやる」
助手が少し迷うような顔をする。
「刻印の件もあります。あちらはもう偽造が難しい」
「だから噂だけに絞った。刻印が入っていても効かなかったという話が広まれば、刻印自体の信頼が落ちる——それで十分だ」
男が部屋を見回す。倉庫の在庫、机の上の帳簿、壁に貼った仕入れ先の一覧——半年かけて積み上げたものが、今日で終わる。
「帳簿は燃やせ。仕入れ先の紙も全部、倉庫の在庫も捨てていい——証拠になるものは守備隊が来る前に全部片付けろ」
「荷は」
「最低限でいい。金と書類だけ持つ——荷が多いと動けない」
助手が動き始める。
部屋の奥、小さな暖炉に帳簿が投げ込まれる音がする。紙が燃える匂いが広がり始める。
男が荷を持って部屋を出る。石段を一段ずつ下りながら頭の中で次の街を考えていた——伝手はある、荷は少ない、ここまで来たら動くだけだ。
路地に出て、一度だけ通りの先を確かめた。
守備隊の姿はまだない。
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