第110話『ダンジョンへの一歩』
留守番の礼にと約束した通り、店に立つ日を選んで、台所に立った。鍋からは唐揚げの油が弾ける音がし、隣では乾燥野菜のスープの湯気が立ち上っていた。
「いい匂いですね、これ」
ミレイが、鍋を覗き込みながら呟いた頃、店の鈴が鳴った。
「こんにちは! ケイさんいる?」
顔を出したのは、ノナだった。後ろには、セラの姿もある。
「気になっててさ、噂の店。セラと組んでる依頼の帰りに、ちょっと覗きに来た」
「買い物か」
「うん、乾燥野菜、どんなものか気になって。……って、なんか、めちゃくちゃいい匂いしません? これ、何作ってるんですか」
ノナが、鼻をひくつかせながら、店の奥へ視線をやる。
そこへ、また鈴が鳴った。
「よう、ケイ……お、ノナとセラも来てたのか」
顔を出したのは、レトだった。
「お前もか」
「気になってさ、噂の店。まさか鉢合わせるとはな」
苦笑いを浮かべるレトの後ろから、さらに鈴の音が続く。ゴルドも、少し間を置いて顔を出した。
「皆さんも、来られたんですね」
セラが、少し驚いたように呟く。示し合わせたわけでもないのに、四人が同じ日に揃うとは、思いもしなかった。
「さっきから、いい匂いだけど、何作ってんの?」
レトが、鼻を鳴らしながら訊ねてくる。
「揚げ物だ。今日は調合作業を休みにしてる。見てくか」
「見ていいのか」
「今は誰も工程を触ってない。問題ない」
案内すると、レトが厨房を覗き込み、鍋の中で油が跳ねているのを見て、目を丸くした。
「油、こんな使い方するのか。灯りに使うものだと思ってた」
「見たことない料理だな」
「乾燥野菜のスープと、揚げ物だ。店の連中への礼だが」
「揚げ物って、なんですか?」
ノナが、首を傾げる。
「肉に衣をつけて、油でじっくり揚げる。俺の故郷の調理法だ」
「へえ、ケイさんが自分の故郷の話するの、初めて聞いた気がする」
レトが、興味深そうに言う。故郷の話をするのは珍しいと、自分でも思う。
「へえ……で、何の肉なんですか?」
セラが、控えめに訊ねてくる。
「ホーンラビットの肉だ。味は保証する」
説明を聞いて、ノナの目が、分かりやすく輝いた。セラも、控えめながら鍋の方をちらちらと見ていて、ゴルドだけは何も言わなかったが、視線だけは同じ方向を向いていた。
「材料は足りてる。よければ、少し食べてくか」
「いいの!?」
ノナが、前のめりに詰め寄る。
「お前らも仕留めるのを手伝った肉だ。食べる権利はあるだろう」
「あ、そっか、あれか! だったら、なおさら食べたい!」
奥から、フィアが顔を出した。
「いらっしゃい。もう出来上がってますよ」
木の椀に、湯気の立つスープと、揚げたての唐揚げが盛られていく。小皿には、細かく刻んだ野菜を発酵させた付け合わせも添え、四人が、カウンターの隅に並んで腰を下ろした。
「これ、なんか酸っぱい匂いがしますけど」
ノナが、小皿に鼻を近づけて、少し怪訝な顔をする。
「発酵させた野菜だ。腐ってはいない。唐揚げと一緒に食べてみろ」
「いただきます」
セラが、静かに手を合わせてから、匙を取る。一口飲んで、ふっと表情が緩んだ。
「美味しい……」
「だろ。俺が味付けした」
「ケイさん、料理までできるんだ」
ノナが、唐揚げを頬張りながら、感心したように言う。
「一人でやってた時期が長かったからな。自分で作るしかなかった」
短く答えると、レトが、器用に骨から肉を外しながら頷いた。
「ポーション屋の店主が料理上手とか、反則だろ」
「うるさい。冷めるぞ」
ノナが、恐る恐る発酵野菜を唐揚げと一緒に口に運んだ。一瞬、目が丸くなる。
「……あれ、さっぱりする! 脂っこさが消える感じ!」
「セラも、試してみるといい」
セラが、少量を唐揚げに乗せて食べる。小さく頷いた。
「本当ですね……酸味が、後味を軽くしてくれます」
ゴルドも、無言のまま両方を交互に口へ運んでいた。それだけで、悪くない反応だと分かった。
軽口を交わしながら、四人が食事を進めていく。店の奥には、フィアとソルとダル、セイナ、充填の二人も加わり、いつになく賑やかな昼時になった。
「また作ってくださいね」
セラの一言に、頷く。にぎやかな声に囲まれながら、こういう時間も、悪くないと素直に思えた。
翌日、依頼の日。境界の森の外れで、小型の魔物を数体片付けての帰り道だった――今日は、レトと、パーティを組んでいるノナとセラに声をかけて、一緒に受けてもらった。
依頼の内容は、単純な間引きだった。気配で位置を掴み、目立った危険もなく片付けていく――研修で覚えた手順を、体がそのまま覚えていた。
三人とは別れ、一人で街道を歩いている。
日差しは、まだ高い位置にある。討伐は、思っていたより早く片付いた――研修で叩き込まれた気配の探り方が、こういう場面でも確実に生きている。
「ケイ」
背後から、聞き慣れた声がかかる。振り返ると、リナが軽く手を上げて歩いてきた。
「珍しいな、ここで会うのは」
「別の依頼の帰りよ。……ちょうど良かった、少し話したいことがあったの」
その言い方に、少しだけ身構える。リナが改まった調子で切り出す時は、たいてい大事な話だった。
今回も、その例に漏れないらしい。
並んで歩きながら、リナが切り出す。
「まだ二回目だろうに、もう様になってきたじゃない」
「まあな」
「そろそろ、次の話をしてもいい頃だと思うわ」
足が、自然と止まった。
「ダンジョンか」
「察しがいいわね」
リナが、少し驚いたように目を細めた。これだけ付き合いが長くなっても、まだ驚かせることができるのは、少し嬉しかった。
「顔に出てたか」
「いいえ。ただ、そろそろこの話をするだろうと、私も予想していただけ」
研修の打ち上げの席で聞いた言葉を、思い出す。地上とは勝手が違う、閉所での立ち回り、後戻りできない一本道、時間停止のポーチの扱い――あの時、まだ先の話だと言われていたものが、いよいよ現実味を帯びてきた。
「専門の研修が要るんだったな」
「そう。座学と、模擬環境での実技。それから、浅い階層での実地訓練。……今の依頼と両立させながらになるから、少し時間はかかるけど」
「具体的には、どんなことを習うんだ」
「閉所での立ち回り方、それから、迷わないための一本道の歩き方。時間停止のポーチについては、実物が高価すぎて研修用には回せないから、座学で仕組みと注意点だけ叩き込むことになるわ。地上とは、頭の使い方からして違うの」
「気配の感覚も、勝手が変わるのか」
「変わるはずよ。壁に囲まれて、逃げ場も少ない。地上の感覚のまま踏み込むと、痛い目を見る人も多いの」
リナの声が、少し真剣味を帯びた。ふざけた話ではないと、その口調だけで伝わってくる。
リナの説明に、真剣に耳を傾ける。気配という、これまで頼りにしてきた感覚も、閉ざされた空間では勝手が変わるのかもしれない。
「班編成は、地上の研修と同じか」
「ええ。数名一組で、引率が一人つく。志願制だから、確実に私が担当になるとは限らないけど……」
リナが、そこで少し言葉を切った。
「分かった」
「店との兼ね合いは」
「そこは、あなたが決めることよ。無理な詰め込みは、しなくていいわ」
リナの言葉に、少し考える。
討伐依頼と店の両立は、ようやく形になったばかりで、そこにダンジョンが加われば、また調整が要る。だが、いつまでも先延ばしにできる話でもなかった。
「まずは、班のメンバーが決まらないと始まらないんだったな」
「そうね。引率が誰になるかも、メンバー構成次第で変わってくるから」
「メンバーが決まるまで、どのくらいかかる」
「早ければ数日ってところね。集まり次第、また知らせるわ」
「頼む」
短く答えると、リナが、意外そうに目を見開いた。
「メンバーも引率も決まってないのに、即答するのね」
「相場と同じだ。機会が来たら、迷ってる暇はない」
「……相変わらず、変な例えね」
リナが小さく笑う。だが、その目には、どこか安堵の色があった。
「もっと渋られるかと思ってた。ダンジョンは、地上の依頼とは危険度が違うもの」
「危ないのは分かってる。それでも、いつまでも足踏みしてる方が、性に合わない」
「相変わらずね、あなたは」
呆れたような、それでいて楽しげな声だった。気心の知れてきた相手の、こういう軽口も、悪くないと思えるようになっていた。
「引率、決まったら真っ先に知らせるわ。私が担当になれたら、心強いでしょう」
「望むところだ」
言ってから、少し照れくさくなった。リナは何も言わず、ただ、いつもより少しだけ、口元を緩めていた。
「引率するのは、あなたが初めてじゃないのよ。だから、あまり気負わないで」
「気負ってはいない」
「顔に出てるわよ」
リナが、くすりと笑う。図星を突かれ、思わず視線を逸らした。
「ギルドから頼まれて、もっと物分かりの悪い相手を指導したこともあるわ。それに比べたら、あなたは楽な方よ」
「基本は一人で潜る方が性に合ってるはずだろう。よく引き受けたな」
「あの時だけの依頼だったからね。……まあ、今回もあなたの事情を知ってる分、他人よりは動きやすいってだけ」
リナが、少し遠くを見るような目をした。歳の割に、場数だけは踏んできた者の顔だった。
「詳しい日程は、また連絡するわ。座学の担当官には、私から話を通しておく」
「助かる」
街の通りが見えてくる。夕暮れ時の人通りが、少しずつ増えていた。
「そういえば、店の方の面倒事、あれからどうなった」
不意にリナが訊ねる。例の商人の一件は、リナの耳にも入っているらしかった。
「まだ、商会の特定には至っていない。だが、被害は広がっている。他の店にも同じ手口が及んでいるそうだ」
「厄介ね。……何かあったら、私にも言いなさい。多少は、力になれるわ」
「その時は頼む」
「あなた、一人で抱え込む癖があるから。今回みたいに、ちゃんと相談してくれると助かるわ」
リナの言葉に、少し面食らった。抱え込んでいるつもりはなかったが、指摘されると、思い当たる節がないでもない。
「気をつける」
「素直ね、珍しく」
からかうような口調に、苦笑いを返すしかなかった。
リナと別れ、店へ向かう足を速めた。
夕暮れの通りを歩きながら、今日の話を、頭の中で整理する。ダンジョン、討伐依頼、店の運営、そして商人の影――一つ一つは大きくなくても、全部合わせると、やることは多かった。
それでも、不思議と足取りは軽かった。トレーダーだった頃なら、リスクを避けて足踏みしていたかもしれないが、今は、飛び込む先に、頼れる相手がいる。
緑の雫の扉が見えてくる。窓から漏れる灯りが、いつも通り、そこにあった。
扉を開ける前に、少しだけ足を止める。討伐依頼、店の運営、ダンジョンという新しい課題、そして、まだ正体の知れない商人の影――数えれば数えるほど、抱えているものは多かった。
それでも、一つずつ、確実に前へ進んでいる実感だけは、確かにあった。
扉を開けると、鈴が鳴る。ミレイが顔を上げ、いつもの調子で声をかけてきた。
「おかえりなさい。今日はどうでした」
「問題ない。それと、少し話がある」
「なんですか」
「ダンジョンの研修を、近々受ける。班を組んで潜る形式で、リナも引率に志願してくれるそうだ。まだ決まってはいないが」
ミレイの目が、驚いたように見開かれた。
「ケイさんが、ダンジョンに……」
「そうだ。まだ先の話だと思っていたが、もう動き出す」
「大丈夫なんですか、危なくないですか」
心配そうな声に、少し胸が温かくなった。
「無茶はしない。リナが引率になれば、なおさら心強い」
「それなら、少し安心です」
ミレイが、ほっとしたように息を吐く。奥からフィアとソルも顔を出し、話を聞いていたのか、静かに頷いてきた。
「街の外れの、あそこですよね。研修は、何日くらいかかるんですか」
「詳しいことは、これから研修で習う。まだ、はっきりとは言えない」
「そうなんですね……何かあったら、必ず教えてくださいね」
ミレイの声には、不安と同時に、頼ってほしいという気持ちがにじんでいた。
この店の誰もが、こうして気にかけてくれる――それが、当たり前になりつつあることに、改めて気づかされる。
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【借金メモ・110話終了時点】
前話(109話)終了時:資金銀貨四十一枚と小銀貨八枚と大銅貨五枚・残債なし
110話収入:小型魔物討伐の報酬(大銅貨五枚、三人パーティでの取り分)
ケイの資金:銀貨四十一枚と小銀貨九枚
残債:なし
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【賃料管理メモ】(109話から二日経過)
緑の雫(店舗):次回支払いまで残り2日
試作場:支払い済み・次回まで残り9日
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