第103話『留守の間の話』
夜明け前に目が覚めた。自室の見慣れた天井を、しばらく見つめる。
昨夜、打ち上げのあと、久しぶりに自分の寝台で眠った。
二日間、森の中でずっと気配を探り続けていた頭は、まだ街の静けさを持て余している――目を閉じると、ゴルドやレト、ノナやセラの顔が浮かんでくる。あの班とは、研修が終わればまた別々の道を歩くことになるが、あの二日間で得たものは、きっと形を変えて、これからも役に立つはずだった。
打ち上げの余韻と、二日間の疲れが、まだ体の芯に残っていて、それでも、寝過ごすわけにはいかない。店を二日も空けたままでは、開店の準備がミレイたちだけの手に偏ってしまう。
身支度を整え、階下へ下りると、緑の雫の店内は、まだ薄暗く、静まり返っていた。
棚を一つずつ確かめて回ると、乾燥野菜もポーションも並びが乱れていない。二日間、ミレイが毎朝、きちんと並べ直していたのだと分かった。
行商の荷車が石畳を鳴らす音が、通りから響いてくる。開店の支度を始めて間もなく、裏口から、いつもより早い足音が聞こえた。
「おはようございま……ケイさん!」
戸口に立ったミレイが、目を丸くして立ち止まる。
「戻ったんですね……! おかえりなさい」
声が少し震えていた。安堵しているのが、はっきりと伝わってくる。
「変わりはないか」
「はい、だいたいは。……あの、少し、報告したいことが」
ミレイの表情が、わずかに硬くなった。ただの雑談ではないと、すぐに分かった。
「聞こう」
カウンターを挟んで向かい合う。ミレイが帳面を閉じ、代わりに、この二日間の出来事を、順を追って話し始めた。
「初日の昼過ぎ、身なりのいい男の人が来て……乾燥野菜の作り方を聞かれました。でも、わたし、本当に知らないので、そう答えたんです」
「それでいい。知らないものは、知らないと言うしかない」
「そう言ったら、お金を出されて。大銀貨みたいな、大きい銀貨を何枚も」
「いくらだ」
「正確には数えてないですけど……三枚か、それ以上はあったと思います」
数字を聞いて、奥歯を噛んだ。金額の大きさよりも、迷わずそれだけを積んでくる相手のやり口に、覚えがあった――この街の相場からすれば、正体の知れない者にばら撒くには重すぎる額だ。
「それで」
「知らないの一点張りで、通しました。最後は、諦めて帰っていきましたけど……また来るかもしれません」
不安げな声だった。話しながら、ミレイの手が、帳面の端を強く握っているのが見えた。
「よくやった」
短く返すと、ミレイの頬が、わずかに緩んだ。ほっとしたのが、表情だけで分かる。
だが、話はそこで終わらなかった。
「二日目は、フィアさんとソルさんのところにも、同じ人が来たんです。乾燥野菜のことじゃなくて、今度はポーションの――加熱と濾過の工程を」
窓口越しに、フィアが顔を出した。作業の手を止め、こちらへ歩いてくる。
「戻ったのね」
「ああ。話は、ミレイから聞いている」
「私にも、大銀貨三枚と銀貨五枚、出された。ソルには、四枚」
淡々とした口調だが、金額の大きさは、フィア自身も分かっているはずだ。それぞれ違う額を積んで、どちらかが折れるのを待つ――こちらが元いた場所でも、似た手を使う輩はいた。
値をばらけさせ、どこかで綻びを探る。よくある手口だが、実際に自分の店へ向けられると、腹の底が冷えた。
「答えようとしたら、声が出なかった」
フィアが、静かに続けた。
「魔術師には、そう聞かされていた。でも、実際になるのを感じたのは、あれが初めてだった」
その一言に、少し驚いた。想像していたよりも、ずっと生々しい経験だったのだろう――フィアの声が、いつもより低い。
工程は、あらかじめ分けてある。誰か一人が話そうとしても、開示できないよう契約で縛ってあった。
まさにこういう事態のための備えだったが、それが実際に効いたと聞いて、詰めていた息を、静かに吐き出した。
「三人とも、よくやった」
ミレイの肩から、目に見えて力が抜けていくのが分かった。
「良かった……何か、まずいことになってたらどうしようって、ずっと」
「まずくはない。むしろ、相手の狙いが見えた分、こちらが有利だ」
一つの商品を諦めて、もう一つを狙う――粘着質で、計算高い相手だった。今日にでも、フィアとソルから直接、男の人相を聞いておく必要がある。
「その男、また来るかもしれない。誰か一人で対応させるな、必ず、誰かと一緒に出るようにしてくれ」
「はい。三人でも、そう決めていました」
ミレイの声に、迷いはなかった。この二日間で、何かが変わったのが分かる――声の張り方、背筋の伸び方が、以前より、少しだけ、しっかりしていた。
「顔は、覚えているか」
「仕立てのいい上着で、指輪をしていました。歳は四十くらい……声は柔らかいですけど、目は全然、笑ってなくて」
フィアが横から言い添える。
「私のところに来たのは、右手の甲に、小さな傷痕があった」
同一人物かどうかは、まだ断言できない。だが、一人であれ複数であれ、組織立って動いているとしか思えなかった。
金額を惜しまず、標的を切り替え、複数人へ同時に手を伸ばす――行き当たりばったりの小悪党ではなく、どこかの商会が、正式に人を雇って動かしている可能性もあった。トレーダーをやっていた頃なら、こういう動きの裏に何があるか真っ先に疑ってかかっただろうと、ふと思う。
「分かった。その特徴は覚えておくし、商業ギルドにも一応報告しておく」
「お願いします」
フィアが軽く頭を下げ、作業場へ戻っていく。窓口の向こうから、ソルの短い声も聞こえた。
「戻ったか」
「ああ。世話をかけた」
「別に」
素っ気ない返事だが、それだけの間柄で十分だった。ソルは元々、多くを語る性分ではないが、窓口越しに一言かけてくるあたり、こちらの帰りを気にかけていたのは分かる。
奥では、ダルとセイナが、いつも通り素材を刻む音を立てている。充填担当の二人も瓶を並べる手を止めずに軽く頭を下げてきて、誰一人欠けることなく、二日間、この店を保っていてくれた。
「留守の間、世話になった」
声をかけると、ダルが照れたように頷き、セイナも小さく笑った。多くを語らない連中だが、その仕事ぶりだけは、いつも信頼できる。
「他には、何かあったか」
「あの……常連のお婆さんが、いつも通り来てくれました。それと、新人の冒険者さんたちも、噂を聞いて来てくれて」
ミレイが、少し照れたように続ける。
「店のこと、ちゃんと知られてるんだなって、思いました」
嬉しそうな声だった。
カウンター脇の掲示板に目をやる。乾燥野菜の使い方を絵で示したあの板は、二日前と変わらず、そこにあった。
「これも、ちゃんと使ったんだな」
「はい。お客さんに聞かれたら、必ず口でも説明するようにしています」
決まりを、決まりのまま守っているだけではない――自分の言葉で、客に伝えている。それは、教えたことより一歩先の仕事だった。
「ミレイが、ちゃんと守ったからだ」
短く返すと、ミレイが目を丸くしてから、小さく笑った。
「悪かったな。二日間も、一人に背負わせて」
思わずそう言うと、ミレイが慌てたように首を振った。
「一人じゃないです。フィアさんも、ソルさんも、皆で決めたので」
その言い方に、少し驚いた。任せた、と思っていたのは、こちらの側だけだったのかもしれない――留守の間、この店は、ミレイ一人が守っていたわけではなかった。
留守にしていた分の重さを、今さらのように感じる。相場だけを見て生きていた頃は、こんな重さを背負ったことはなかったが、今は違い、数字の向こうに、この七人の顔があった。
安心すると同時に、申し訳なさも湧いてくる。
「研修は、まだ数日残っている。座学と、解体研修と、受付研修だ」
「はい」
「それが終われば、討伐依頼も受けられるようになる。店との両立は、依頼を受ける日と店に立つ日を分ける形でいく」
「リナさんから、少し伺いました」
ミレイが頷く。話が早くて助かる。
「休みの日を決めたら、また相談させてくれ。急に留守にすることが、これからも増える」
「大丈夫です。今回、やれることが分かりましたから」
その一言に、迷いはなかった。二日間、任せて正解だったと、今さらのように思う。
「討伐依頼は、初めのうちは近場だけにする。遠出は、もう少し慣れてからだ」
「わたしたちも、留守番には慣れましたから。今回みたいなことがあっても、今度はもっと落ち着いて動けると思います」
「頼もしいな」
素直にそう言うと、ミレイが照れたように目を伏せた。
「ダンジョンの話も、そのうち出てくると思う。まだ先の話だが、店の運営には関わらないやり方で調整するつもりだ」
「はい。……ケイさんが決めることなら、わたしたちは、いつも通りに店を回すだけです」
その一言に、安心した。留守にする回数が増えても、この七人がいる限り、店は保たれる――そう思えるだけで、これから外へ出るのが、少し楽になる気がした。
窓の外が、少しずつ明るくなっていく。棚に並んだ乾燥野菜と瓶を見渡すと、二日前と何一つ変わっていない。
留守の間、確かにここは守られていたのだと、改めて感じた。
「今日から、また頼む」
「はい」
ミレイが頷いてから、ふと思い出したように、もう一度口を開いた。
「……おかえりなさい」
二度目の「おかえり」には、最初よりも、幾分か落ち着いた響きがあった。それが、なぜか、うれしかった。
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【借金メモ・103話終了時点】
前話(102話)終了時:資金銀貨四十一枚と小銀貨八枚・残債なし
103話収支:本話内での増減なし(店舗は通常運営、ケイ帰還のみ)
ケイの資金:銀貨四十一枚と小銀貨八枚
残債:なし
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【賃料管理メモ】(102話から変動なし)
緑の雫(店舗):次回支払いまで残り3日
試作場:次回支払いまで残り7日
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