第102話『胸を張れる日:ミレイ視点』
朝の光が、店の敷居を白く照らしていた。
「行ってらっしゃい、ケイさん。お店のことは、任せてください」
声を張ると、少しだけ、喉の奥がひりついた。ケイさんは軽く頷いて荷物を背負い、通りへ出ていく――二日間の野外実習、また顔を合わせるまで、店の中心に立つのは自分だった。
背中が路地の角に消えるのを見届けてから、扉を閉めた。指先がカウンターの木目をなぞると、ひんやりとした感触の下に、木がわずかにささくれている場所がある――何度も棚卸しで肘をついた、いつもの位置だ。
任された、という言葉が、まだ胸の奥に引っかかったままだった。カウンターに置いた指先が、いつのまにか白くなるほど強く押しつけられていて、息を吸い直したところで、自分が止めていたことに気づいた。
「フィアさん、ソルさん、それにダルさんとセイナさんも、今日からよろしくお願いします」
奥へ続く扉を開けると、まずフィアの部屋だった。灰がかった緑の瞳が瞬きひとつぶんだけこちらに留まり、薬草のしみが指先に残る手で、素材の袋の口をひとつずつ結び直している――奥にはダルの姿もあり、フィアの補助として、同じ部屋で立ち働いていた。
「よろしく」
短い返事だけで、フィアはすぐに作業へ視線を戻す。
隣の部屋はソルとセイナだった。壁を一枚挟んだだけの距離なのに、フィアの部屋からは直接行き来できない造りになっている。
「よろしく頼む」
ソルが軽く頭を下げ、セイナも黙って会釈を返した。二部屋を隔てる壁には、受け渡し用の小さな窓口が一つだけ開いていて、互いの工程を見せない、見せられない――その仕切りの意味を、雇われた最初に聞かされている。
店の表側へ戻ると、充填担当の二人が瓶の触れ合う小さな音を立てていて、棚の位置を確かめながら、頭の中でも自然と人数を数えていた――フィア、ダル、ソル、セイナ、充填の二人、それに自分で七人。誰も互いの部屋の奥までは知らないが、この七人が揃って初めて、店は回っている。
品を切らせば、街の外れの試作場まで受け取りに行く。乾燥を担うアデルと瓶詰めの担当がそこで働いているが、顔を合わせるのはめったになく、それだけの縁だった。
カウンターの奥に戻り静かな店の中を見渡すと、指示する側に立ったことなど、これまで一度もなく、いつもはケイさんの一言を聞いて動くだけでよかった。扉の向こうにその気配がないというだけで、背筋の伸ばし方が、いつもと違っていた。
---
初日は、拍子抜けするほど平穏に過ぎていった。
常連客が乾燥野菜を買っていき、ポーションを求める旅装の男が二人来る。硬貨を受け取り、包みを渡し、礼を言う――手はいつも通り動くのに、耳の奥だけが扉の鈴の音にわずかに敏感になっていて、乾いた薬草と瓶の内側に残る仄かな金気の匂いも、いつもより濃く感じられた。
昼過ぎ、若い駆け出しの女が、カウンター脇の掲示板の前で足を止めていた――乾燥野菜の使い方を絵で示した、あの板だ。指先で、絵の順番をなぞっている。
「これ、お湯を注ぐだけでいいんですか」
「はい。瓶の蓋を開けて、椀にお湯を注いで、中身を全部入れるだけです。しばらく待てば、野菜はふっくら戻って、干し肉も柔らかく食べられるようになります」
「便利ですね……ダンジョンに持っていくのに、ちょうどいいって聞いて」
女の目が、棚の値札のあたりで、一瞬止まる。
「決して安いものではないですけど、荷物の軽さを考えたら、悪くない買い物だと思います」
値は、ポーション一本とほとんど変わらず、安売りはしていないが、駆け出しの稼ぎでも爪先立ちすれば届く高さに、ケイさんはその値を据えていた。誰でも手が出るほど安くはなく、稼いでいれば手を伸ばさずに済むほど高くもない――そのあたりの匙加減も、店主の考えなのだろうと思っている。
セット版を一つ、会計に通した。使い方をもう一度口で添えると、女は板をちらりと見やり、頷いてから、袋を大事そうに抱えて出ていった。
その後ろに続いて、腰の曲がった老人が入ってくる。杖をついて、いつもの席――というより、いつも立ち止まる棚の前へ、ゆっくりと歩いていった。
「いつもの、淡く濁った初級ポーションを二本でよろしいですか」
「ああ、それでいい。あんた、今日は一人かい」
「はい。ケイさんは、少し出ています」
老人が、こちらの顔をしげしげと見た。
「そうかい。……しっかりしなさいよ。ここの店主は、あんたを見込んで任せたんだろうから」
言葉に詰まって、頷くだけで返した。硬貨を受け取り瓶を包む間、老人はカウンターに片肘をついたまま、店の棚をゆっくり見渡している――この街で長く生きてきた者の、値踏みではない目だった。
「変わらないねぇ、この店は」
「変わらないように、頑張っています」
「その調子だ」
老人が瓶を懐にしまい、杖の音を響かせながら出ていく。扉が閉まったあとも口の中でその言葉をもう一度なぞると、頬の内側が、じんわりと熱くなっていった。
夕方、戸締まりをしながら、フィアとソルへ、その日の売上を告げる。
「今日は、この量で。ケイさんが戻ったら、まとめてお伝えします」
「分かった」
短い返事だけで、フィアは道具を片づけ始めた。今日一日をどう終えたのか、うまく言葉にできないまま鍵を回すと、かちりという音のあとで、いつもより肩が下がっていることに、遅れて気づいた。
ソルが、戸口で軽く振り返った。
「明日も、頼む」
「はい、お疲れさまでした」
三人がそれぞれの方向へ帰っていくのを見送り、誰もいなくなった店の中で、しばらく立ち尽くす――静かな店内に、自分の呼吸の音だけが響いていた。今日一日、大きな失敗はなかった、それだけで、十分だった。
---
二日目の朝、いつもより早く目が覚めた。まだ薄暗いうちに身支度を整え、店へ向かう。
鍵を開けると、昨日と同じ静けさが待っていた。棚の並びを確かめ、掲示板の埃を軽く払いながら、一日目を無事に越えられたという事実だけが、今日を支える足場になっていることに気づく。
フィアとソルも、それぞれの部屋で、いつも通りに仕事を始めていた。窓口越しに聞こえる、素材を刻む小さな音、瓶を並べる乾いた音――昨日と変わらないその音が、今朝は、少しだけ心強く聞こえた。
朝のうちは、常連客が数人来ただけの静かな時間だった。会計を打ち、包みを渡し、礼を言う――繰り返すうちに、指の動きは、いつもの調子を取り戻していった。
昼が近づいた頃、若い冒険者らしき三人組が入ってきた。装備は真新しく、話し方にもまだ硬さが残っている。
「すみません、ここ、噂の乾燥野菜のお店ですよね」
「はい、緑の雫です」
先頭の男が、仲間を振り返ってから、こちらへ向き直った。
「実は、俺たち新人研修が終わったばかりで……先輩に、ここの品を教えてもらったんです。ダンジョン病に効くって」
「絶対に効くとまでは言えないんですが、体への負担が軽い作りにはなっています」
「店主さんって、元は冒険者だったんですか? いろいろ工夫してるって聞いて」
不意を突かれて、一瞬、言葉に詰まった。
「……詳しいことは、分かりません。ただ、店主は今、別の用事で外に出ています」
「そうなんですね。またお邪魔します」
三人が棚を眺めながら、セット版をいくつか選んでいく。
会計を打ちながら、胸の奥にくすぐったいような感覚が広がり、この店が、こんなふうに新人たちの間でも噂されているとは、思ってもみなかった。ケイさんが留守の今この瞬間にも、この店の評判は、静かに育ち続けている。
三人が礼を言って出ていくと、また静かな時間が戻ってきた。
昼を過ぎ、日差しが店の奥まで届く頃になって、ようやく人通りが落ち着いた。
二日目の昼下がり、鈴の音が鳴った。
戸口に立っていたのは、仕立てのいい上着に身を包んだ男だった。指には銀の指輪、物腰は柔らかいのに、店の隅々まで値踏みするような目の動きだけが、そこだけ剥き出しになっている。
「これはこれは、繁盛しているようだね」
「いらっしゃいませ」
男は棚に近づき、乾燥野菜の瓶を手に取って、光にかざすように眺めた。
「これが、噂の品か。……ちょっと聞きたいんだが、これはどうやって作っているのかな」
背筋が、すっと強張った。
「申し訳ございません。それは、わたしにも分からないんです。仕入れの品なので」
作り方は、この店の誰も知らず、品を受け取りに試作場へ行くことはあっても、通されるのは入り口の受け渡し場までで、その先の作業場は見たことがなかった。値段と扱い方だけを知っていればいい――そう教えられて、実際、それ以上を知ろうとしたこともない。
「そう硬いことを言わずに。教えてくれたら、それなりの礼をするよ」
男が懐から小さな革袋を取り出し、机の上で逆さにすると、大銀貨が三枚以上、鈍い音を立てて転がり出る――何年分もの給金を、まとめて積まれたような重さだった。カウンターの向こうで、フィアの手が素材を並べる動きを止めたのが、視界の端に映った。
しばらく、誰も何も言わなかった。銀貨の音が消えたあとの静けさだけが、店の中に残っている。
「店主に、と言うが……あんたが伝えれば、それで済む話じゃないのかな。この量の銀貨、あんた一人の懐に収めても、誰も気づきはしないよ」
喉の奥が、かっと熱くなった。値を積むだけでなく、今度は、こちらの良心そのものを試すような言い方だった。
「知らないものは、伝えようがありません。それに、店の物は店の物です」
声が震えないよう、腹に力を込めて言うと、男の目が、こちらの顔を数秒、値踏みするように動いた。その数秒が、ひどく長く感じられる。
「本当に、分からないんです。店主に訊いていただくしか」
「……頑固だね」
男は笑みを崩さないまま、革袋を懐へ戻した。
「まあいい。今日のところは、これを」
乾燥野菜を一袋買って、男は店を出ていった。鈴の音が鳴り止んでも、しばらく指が動かず、握っていた帳面の角には、指の形のへこみが残っていた。
---
その夜、閉店したばかりの店で、フィアとソルへ、昼間のことを伝えた。
「変な人が来て、乾燥野菜の作り方を聞かれました。知らないので、そう答えたんですけど……お金まで出されて」
言いながら、声がわずかに上ずっているのが、自分でも分かった。
「私のところにも、似たような人が来た。今日の朝」
フィアが、素材を仕舞う手を止めて言う。
「えっ」
「乾燥野菜のことじゃない。うちのポーションの、加熱の工程だけ教えてくれと言われた。大銀貨三枚と銀貨五枚、出された」
大銀貨三枚以上を目の前に積まれた自分より、さらに多い。何年分もの給金を、ひとまとめにされたような額だった。
「断ったんですね」
「断ったというより、答えようがなかった」
フィアの声が、いつもより、少し低くなった。
「答えようとした瞬間、声が出なくなった。魔術師にはそう聞かされていたけれど、実際になるのを感じたのは、今日が初めてだった」
一拍、間があった。フィアが、自分の喉のあたりへ、そっと手を当てる。
「場所も、相手も関係ない。契約で縛った工程の話に触れようとした、その一瞬だけ、声そのものが出なくなる――そういう仕組みらしい」
ソルも、片づけの手を止めて口を開いた。
「俺も、同じだった。答えようとした瞬間、声が出なくなった。濾過の工程だけ、と聞かれて」
「値は、いくらでした」
「大銀貨四枚。あんたに出された額より、大銀貨一枚ぶん多い」
大銀貨三枚、大銀貨三枚と銀貨五枚、大銀貨四枚――どれも、何年分もの給金に相当する額で、しかも聞くたびに積み増されていた。それだけの銭を、迷わず用意してくる相手だということだった。
誰も、すぐには言葉を継がなかった。夜の店の中で、瓶の触れ合う音さえ止まっている。
三人の視線が、静かに交わる。乾燥野菜で何も引き出せなかったあの男が、次はポーションの方に狙いを移し、別々の場所で別々の額を提示していたらしい――偶然ではないと、誰も口に出さずに理解していた。
「それぞれ違う額を出して、揺さぶってるんだと思います。誰か一人でも折れれば、そこから広がるから」
「心が揺れても、口が動かない。あの契約は、そのためのものだったのね」
フィアの声から、いつもの硬さが、わずかに抜けていた。初めて聞かされたときは少し大げさな仕組みだと思っていたが、実際に効いた瞬間の話を聞かされて、ようやく、その意味が肚に落ちていく。
「ケイさんが戻ったら、すぐに報告しましょう。あの人、また来るかもしれません」
「顔は、覚えているか」
フィアに問われて、記憶をたどる。
「仕立てのいい上着で、指輪をしていました。歳は、四十くらい……声は柔らかいですけど、目つきは全然、笑ってなくて」
「私のところに来たのも、同じ格好だった。上背があって、右手の甲に、小さな傷痕があった」
ソルも、顎に手をやりながら言う。
「俺のところは、もう少し若い男だった気がする。年恰好は、あんたの言うのと同じくらいだが」
三人の記憶を並べても、ぴたりとは重ならない。もしかすると、一人ではなく、何人かで手分けしているのかもしれなかった。
「一人じゃないかもしれません……だとしたら、余計に厄介です」
「明日も、同じように来るとは限らない。だが、来ないとも限らない」
フィアの言葉に、頷くしかなかった。
「明日は、なるべく一人にならないようにしましょう。誰か来たら、すぐ他の人を呼ぶ、でどうですか」
「それでいい」
ソルが短く答える。三人で決めたことは、それだけだったが、一人で抱えるよりは、ずっと軽くなった気がした。
「一人で判断せず、必ず報告する。そう言われていたので」
フィアが、珍しく、口の端をわずかに緩めた。
「その通り。よく守った」
言われた瞬間、肩の力が、すとんと抜けた。喉の奥に溜まっていた息が、ようやく外へ出ていく。
「今日、ケイさんが戻ったら、私からも直接話す。あんた一人に、報告を背負わせたくない」
フィアの声に、隣室のソルの短い声が続いた。
「私も」
二人の言葉に、鼻の奥が、少しだけつんとした。
「ありがとうございます。心強いです」
戸締まりを終えて表に出ると、通りはもうすっかり暗くなっていた。ケイさんは今夜のうちに街へ戻っているはずだが、顔を合わせるのは店を開ける明日の朝で、あの商人の風貌、フィアとソルに提示された額の違い、声が出なくなる契約の効き方――伝えるべきことは、まだいくつも頭の中に残っていた。
歩きながら、昼間の老人の一言が、ふと蘇り、今なら少しだけ胸を張って頷ける気がした。読み書きもろくにできないまま拾われて、数字だけを頼りに覚えてきたこれまでの日々が、この二日間のために積み重なっていたのかもしれない。
明日、ケイさんの顔を見たら、まず何から話そう。そう考えながら歩く帰り道は、来たときより、いくらか軽かった。
---
【借金メモ・102話終了時点】
※本話はミレイ視点。ケイの資金・借金の詳細な数字は、店員の立場からは把握していないため、店の売上・出来事のみを記録する。
101話終了時点の店舗収支:通常運営分(97〜100話で計上済み)から変動なし
102話(店を任された二日間=ケイの野外実習期間):通常営業を継続し、売上は通常通り確保/突発の来客対応はあったが、金銭のやり取りは通常の会計のみ
---




