スピンオフⅤ
職人の背中
校庭の端で、哲平は額の汗を拭いながら、ブランコの横木の水平を確かめていた。
「……よし、これで狂いはないはずだ」
「丁寧だな、哲平。子供たちはそこまで気にしないと思うぞ」
隣で支えていた諒介が笑うと、哲平は少し照れくさそうに鼻をこすった。
「いや、あのアホみたいに細かい『じいさん』に教わっちまったからな。適当にやると、どこからか見てる気がすんだよ」
その時、背後から低い声が響いた。
「見とるぞ」
「うわっ!? ……なんだ、辰彦か。驚かすなよ」
哲平が振り返ると、そこには籠を下げた辰彦が立っていた。
「じいさん、店はどうしたんだよ」
「仕込みは終わった。……てつ坊、そのボルトの締め、あと半回し足りないようじゃ」
辰彦が指摘すると、哲平は「へいへい」と口では言いながらも、即座に工具を手に取った。
その動きには一切の迷いがない。
リリカや慧吾たちと出会うずっと前、食べるものにも困っていた時期から、こうして辰彦の背中を見て、技と「生き方」を盗んできたのだ。
「……諒介、こいつをあまり甘やかすなよ。すぐ調子に乗るからな」
「はは、師匠は厳しいな」
辰彦はガハハと笑い、籠から包みを取り出した。
中にはまだ温かい、不格好だが具沢山の握り飯が入っている。
「ノヴァが腹を空かせて帰ってくる前に食っとけ。ほれ、お前さんの分もある」
諒介にも包みを渡す。
「サンキュ、じいさん!」
「ありがとう、辰彦」
去っていく辰彦の広い背中を見送りながら、二人は握り飯を頬張った。
「……味も、小言の多さも変わらねぇな」
その光景を、鍛錬の後通りかかった慧吾が、静かに見守っていた。
彼は何も言わない。
ただ、かつて孤独だった者たちが、こうして新しい「家族」の形を築いていることが、自分のことのように誇らしかった。
慧吾は音もなくその場を立ち去り、夕飯の手伝いのために自分の家へと歩を進めた。
琥珀色の記憶
賑やかだった夕食が終わり、リビングには片付けを終えた後の、心地よい静寂が流れていた。
リリカはノヴァを寝かしつけ、ジャックは「飲み直してくる」と夜の街へ消えていった。
厨房の勝手口に続く小さな縁側で、辰彦と哲平は二人、月を見上げながら腰を下ろしていた。
「……なぁ、じいさん。覚えてるか」
哲平が、手元の酒を一口煽って切り出した。
「何を」
「初めて会った時のことだよ。俺が飢えて、あんたの店の裏で倒れてた時」
辰彦は楽しそうに笑う。もちろん、覚えていた。そして自分のグラスを揺らす。琥珀色の液体が、月光を反射して揺れる。
「あんた、包丁持ったまま出てきてさ。『食うか、死ぬか選びんさい』って言ったんだ。あの時はマジで殺されるかと思ったぜ」
「……お前のツラがあまりに汚かったからの。死なれたら、店の裏が汚れると思っただけじゃ」
「相変わらず可愛くねぇ言い草だな。……でも、あの時食わせてもらった握り飯がさ。今日のシチューと同じ味がしたんだよ。不格好で、やけに熱くて」
哲平は膝を抱え、少しだけ目を細めた。
リリカや慧吾、諒介たちと出会う前。この広い世界で、自分を守ってくれるものなど何もないと思っていた頃。
自分を「てつ坊」と呼び、技を叩き込み、時には殴り飛ばして「生」へと繋ぎ止めてくれたのは、この老人だった。
「じいさんはさ……なんで俺を見捨てなかったんだ?腕もなけりゃ、礼儀も知らねぇガキだったのに」
辰彦はしばらく沈黙を守っていたが、やがて低く、呟くように言った。
「……お前の眼が、死んでなかったからじゃ」
「え?」
「腹は空かせていても、何かを盗もうとする眼じゃなかったな。……あの頃のワシには、それが眩しかったんじゃろうの」
哲平は言葉を失い、月を見上げた。
「……眩しかった、か。今はもう、眩しすぎて直視できねぇよ。あの真っ直ぐなノヴァや、全部背負い込もうとする慧吾を見てるとさ」
「ああ。……だから、ワシらが支えるんじゃろうが。てつ坊よ」
その時、背後の闇からわずかな衣擦れの音がした。
「……起きているのか」
短い、低い声。慧吾だった。
「なんだ、慧吾。寝るんじゃなかったのか」
哲平が茶化すように言うと、慧吾は二人の隣を通り過ぎ、黙って水を汲み、戻り際に足を止めた。
「……いい話だった」
それだけ言うと、彼は一度も振り返らずに闇の中へ戻っていった。
「……あいつ、絶対ずっと聞いてやがったな!」
哲平が赤くなって叫ぶと、辰彦は愉快そうに、ハハハと笑った。
二人の間に流れる時間は、新しい仲間たちとの絆とはまた違う、年季の入った「家族」の温かさを持っていた。
沈黙の系譜
二人の話し声が途絶えたあとも、慧吾は闇の中に佇んでいた。
「いい話だった」
そう告げて立ち去ったのは嘘ではない。だが、その言葉の裏側にあった、胸を衝くような感情の正体を、彼はまだ測りかねていた。
(……羨望、だったのか)
慧吾は自分の手を見つめた。
月の光さえ届かないような暗い部屋で、ただ「音を立てないこと」と「命を奪う技術」だけを叩き込まれた幼少期。
彼を育てた者たちの顔に、表情はなかった。
かけられる言葉は常に、命令か、あるいは最短の報告のみ。
名前を与えられるまでは、ただの記号だった。「てつ坊」なんていう、体温の宿る呼び名で呼ばれたことなど、一度としてない。
彼にとっての「絆」とは、冷たくて硬い鎖のようなものだった。
緩めば他人の死に直結し、締めすぎれば己を殺す。
そうやって、自分という個を消し、誰かを守るための「器」であることを強いられてきた。
(『お前の眼が、死んでなかったから』……か)
辰彦が哲平にかけた言葉を反芻する。
かつての自分はどうだっただろうか。
あの冷たい施設の中で、自分の眼には光が宿っていただろうか。
おそらく、氷のように冷え切っていたはずだ。
だが、今はどうだ。
「慧吾、おかえり」と笑うノヴァ。
居場所を守り、すべてを預けてくれるリリカ。
そして、自分の不器用さを鼻で笑いながら、隣に立つジャック。
(俺に、彼らを『選ぶ』資格などあるのか)
出会いの時、リリカに対して放った「俺が決める」という言葉。
それは、彼を育てた者たちがかつて彼に強いた「選別」と同じ響きを持っていたかもしれない。
だが、決定的に違うのは、その選択に「自分の命」を投げ出す覚悟が混じっていることだ。
教え込まれた沈黙は、今や彼にとって、大切な者たちの呼吸を聞き漏らさないための「盾」に変わっていた。
慧吾はゆっくりと、自分の居場所へと歩き出した。
ルーツは暗く冷たい泥の中にあったとしても。
今、その先に咲こうとしているものは、決して冷たいだけのものではない、と信じて。
彼の歩調には、かつての「忍び足」にはなかった、確かな重みが宿っていた。
スピンオフⅤFin.




